埼京線板橋駅、「軍需の街」玄関口からの大変貌 2025年で140周年、実現しなかった鉄道計画も
こうした澤の主張によって、石神井川の水力を利用できる加賀藩下屋敷に火薬の製造所が設立された。
――と言いたいところだが、その準備中に幕府は崩壊してしまう。これで火薬製造所の計画は水泡に帰すように思われたが、江戸幕府の後を受けた明治新政府も火薬製造の重要性を認識しており、澤は引き続き要職として起用された。こうして、1876年から板橋で火薬製造が開始された。
石神井川には江戸末期から製粉や精穀用の水車が多数設置されていたが、明治以降は紡績・撚糸、製糸・製紙・製材・伸銅といった工業用の動力源として利用されるようになる。これらに火薬製造も加わったわけだが、軍事力の強化を急いでいた陸軍省は1880年、石神井川からの分水で水車を動かす際には事前に協議をするように各工場へと申し入れている。
江戸時代から水車を使用していた地元民にとって、陸軍省が優先的に水車を使用するという意味の申し入れは容認できるものではなかった。また、石神井川の水車は工都・板橋を支えるインフラであり、その恩恵は最終的に陸軍省にも及ぶ。地元の反発もあり、陸軍省の申し入れは実現しなかった。
「板橋経由」鉄道計画は続々浮上したが…
石神井川の水利を優先的に使用するという要望はかなわなかったが、板橋で工業化が進んで一帯に町工場がひしめき合うようになったことは、陸軍省に大きな恩恵をもたらした。こうした背景も手伝い、物資輸送面での鉄道の重要性が高まり、日本鉄道は品川線の途中に板橋駅を開設した。
1895年、日本が日清戦争に勝利すると国内の工業化路線は強まる。そして、工業化の進展を見越した鉄道計画も増えていった。板橋は鉄道の要衝地と目されていたこともあり、板橋を起点・経由する計画が続々と浮上した。
例えば、1896年には湯島から帝国大学(現・東京大学)の前を通って板橋へと至る本郷馬車鉄道が創立されたほか、1906年には巣鴨を起点に下板橋を経て白子(現・和光市)や川越などを経由して群馬県の前橋に至る計画の毛武鉄道も設立された。この鉄道が経由地として予定していた下板橋とは、東武東上線の下板橋駅ではなく、現在の板橋駅にあたる。
東武東上線の前身である東上鉄道は、1914年に池袋駅―田面沢駅(現在は廃止)間を開業した。沿線の宅地化や都市化が期待されたものの、都心部まで遠いことが忌避されて開業後も長らく農村然とした雰囲気のままだった。
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