子を亡くした女性にブッダが"冷たく"接した理由 「諦める」は、仏教では「明らかに見極める」
佐々木:ゴータミーは、子どもが死んでしまったことを頭では理解しているでしょう。でも心が受け入れられないのです。いくら探しても、死者を出したことのない家の芥子のタネが見つからず、意気消沈して戻ったゴータミーに、釈迦は「死者を出していない家などない。人は皆、死ぬ定めである」と言い、ゴータミーはこの言葉で初めて、子どもの死を納得して受け入れることができたとされています。誰にでも死は訪れるということを、実際に自分で体を動かして家々を訪ねてまわることにより、初めて実感として理解したという話だと思いますね。
「諦」という漢字に「真理」の意味がある
古舘:見せかけの優しさで慰めれば、その場を一時的には丸く収めることができたのに、釈迦は苦い真理をしっかりと教えましたよね。日本語で「諦める」は放棄や断念など、ネガティブなイメージで使われることが多いと思いますが、仏教では「明らかに見極める」ということですね。
佐々木:おっしゃるとおり、仏教では「諦」という漢字に「真理」の意味があると考えます。釈迦の重要な思想であり、仏教の基本方針に「四諦八正道」というものがあります。四諦とは「苦諦・集諦・滅諦・道諦」の4つの真理。八正道とは、煩悩を消滅させるための具体的な8つの道。すなわち苦しみから逃れるために、正しい心を実現するためのトレーニング法です。ゴータミーはその後、釈迦の弟子になりますから、釈迦の指導によって本当に救われたのでしょう。
古舘:イスラエルの歴史学者で『サピエンス全史』を著したユヴァル・ノア・ハラリが、「釈迦は渇愛から逃れるトレーニング方法を開発した稀有な存在。だから、私は釈迦のファンだ」と言っています。あのスタンスはいいですよね。
佐々木:はい、私もハラリに同感です。「渇愛」とは仏教用語で、喉の渇きに耐えかねた者が激しく水を求めるような、強い欲望や執着を意味します。だから渇愛というものは、つねに不満や苦しみを伴うのです。
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