かつての横浜市民の足「市電」にまつわる6つの謎 ビールを運んでいた?ロマンスカーがあった?
苦境に立たされた横浜電鉄は、1920年4月、横浜市に対して大幅な運賃の値上げを申請したが、これが市民の反発を受け、「市民生活に重大な影響をもたらす電車事業は1私営会社に放任すべきではない」との電車公営論が高まり、市営化の直接の引き金となった。
こうして1921年4月に横浜電鉄は解散、横浜市電気局が運行する横浜市電が誕生した。その後、1923年の関東大震災を経て、震災復興事業が進められる中、かつての逗子線計画のうち杉田までが1927年2月に開業した。ちなみに杉田を含む屏風浦村が横浜市に編入されたのは同年4月だったため、2カ月間は横浜市電が横浜市外を走ったことになる。
なお、逗子までの延伸は「市電」となったことから事業の対象外となり、京急電鉄の前身の1つである湘南電気鉄道によって建設・開業することになった。
実は事故も多かった
■Q3:運転手のいない電車が暴走した?
乗り物に事故は付きものだが、道路上を行く路面電車は、やはり事故が多かった。横浜電鉄の「第三十三回営業報告書」(自1917年12月1日~至1918年5月31日)に掲載されている「運輸事故表」を見ると、半年の間に計76件もの事故が計上されている。
内訳を見ると、「衝突」が52件。電車同士なのか他の乗り物となのか、人との衝突なのかは分からない。おそらく、その全てが含まれているのだろう。続いて「脱線」が5件、「人為妨害」が2件、「停電15分以上」が2件、「断線」(架線切れ)が15件となっている。
昭和初期の1930年1月には、「横浜市電始まって以来の大椿事」と報道された大事故が発生した。運転手(局内では運転士ではなく運転手と呼称していた)も車掌も乗車していない車両が暴走し、他の車両に激突・大破。多くの負傷者が出たのだ。以下、1930年1月15日付の横浜貿易新報記事を引用しつつ、事故の概要を記す(「」内が引用)。
14日午前10時50分、長者町五丁目停留場で西平沼橋行き506号車が発車しようとしていた刹那、後方から猛スピードで走ってきた541号車に追突され、「大音響を発し両電車共に大破」した。
この追突した541号車は、直前まで事故現場から約1.5km先の山の上の終点、山元町に停車していた。当時の山元町の停留場は傾斜地にあり、その危険性は電気局も認識しており、山元町では「車掌運転手の下車する事を厳禁して監督まで置いて」いたが、このルールが徹底されず、541号車の車掌・運転手は下車して休息していた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら