かつての横浜市民の足「市電」にまつわる6つの謎 ビールを運んでいた?ロマンスカーがあった?

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やがて戦争が始まると、青壮年男子が戦場へ送られ労働力不足に陥り、女性運転手が誕生した。当時は、ほとんどの電車が手でぐるぐる回すハンドブレーキであり、女性にはつらい仕事だったという。しかも、運転手といっても、まだあどけなさも残る「十五・六歳から二十歳くらい迄」(1945年1月4日付神奈川新聞)の少女たちが銃後を守ろうと必死に歯を食いしばっていた。

さらに戦時中、軍需工場への通勤輸送など市電の輸送量が増えると、ロマンスカーに改造が施され、収容力を高めるためにロマンスシートを廃止。全席ロングシートになってしまった。

それでも1100型車両は戦後も長く、活躍し続けた。1967年にワンマン車に改造され、1972年3月の市電全廃まで現役を貫いたのである。現在、横浜市電保存館(磯子区滝頭)には、1104号車が保存されている。

低運賃で庶民の味方だった市電

Q5:数年で運賃が100倍になった?

市電の運賃の変化を追いかけると、その時代の世相が見えてくる。横浜電鉄開業時の運賃は片道3銭(当時は、かけそば1杯2銭)。その後、戦前は7銭の時代が長く続き、戦中の1943年5月から10銭になった。

ところが終戦後のハイパーインフレで1946年2月に20銭に引き上げられたのを皮切りに度々値上げが実施され、1947年6月には1円、1951年末には10円と、わずか数年で100倍にまで跳ね上がった。

1953年には13円という中途半端な運賃になったが、これは車掌泣かせだった。今よりも冬が寒かった当時、「かじかんだ手で釣り銭を渡したり、切符にパンチを入れるのが辛かった」(車掌経験者談)という。

しかし、その後は政府の公共料金抑制政策などによって市電の運賃は、ほぼ据え置かれることとなり、これが交通局の累積赤字を膨らませる大きな要因となった。1972年3月の市電全廃までのおよそ20年間で運賃が値上げされたのは、1962年(13円→15円)と1966年(15円→20円)の2回のみだった。

横浜市電 輸送人員・収入推移
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