かつての横浜市民の足「市電」にまつわる6つの謎 ビールを運んでいた?ロマンスカーがあった?
本牧線は乗客だけでなく、貨車でビールも運んだ。1870年、ノルウェー出身のアメリカ人技師、ウィリアム・コープランド(1834~1902年)が山手の天沼(現在の市立北方小学校敷地)にビール醸造所を設立。これを前身として、1907年に麒麟麦酒が創立された。
この麒麟麦酒横浜山手工場は、後に関東大震災で倒壊して鶴見の生麦に移転するが、それまでの間、横浜電鉄の貨車で元町河岸(中村川に架かる「西の橋」と現・JR石川町駅の間に貨物専用の停留場があった)までビールを運び、船積み・出荷されたのだ。
本牧線が開通するまでは、ビールの原料となる麦やホップを馬力や大八車で、地蔵坂・桜道経由で山を越えて工場へ運び込み、製品にして再び山を越えて出荷していたというから、その苦労が緩和されたのは間違いない。
だが、ここで1つ謎がある。横浜電気鉄道の営業報告書には、「ビール会社」の貨物引込線の距離が約54.3m(実際はマイル・チェーンで表記)と記されているが、これでは工場から電車通りまでの距離(推定約500m)にまったく足りない。
本線から分岐した短い引込線の先に倉庫や荷積みを行う場所があり、工場と倉庫の間は荷馬車等で運ばれていたのではないかと推測する説もある。しかし、それも今のところ証拠となるような写真等は見つかっておらず、謎のままなのである。
「市営化」前にあった遠大な構想
■Q2:横浜市電が横浜市外を走った?
横浜電鉄は、路線の延長に積極的だった。中でも遠大な計画だったのが、逗子線の建設である。1912年4月に掘割川河口の八幡橋までが開通すると、さらに杉田を経て、逗子までの延伸が計画された。
ところが、第一次世界大戦期を通じての物価の暴騰により、建設資材の価格が跳ね上がったのに加え、会社の経営悪化がこの計画を阻んだ。経営悪化の原因はいくつか存在したが、1つは土地経営のまずさがあった。『横浜市営交通八十年史』によれば、1918年頃に横浜電鉄が所有する土地は3万6000坪に上り、うち2万坪は賃貸されていたが、残りは遊休状態だったという。
さらに電力料金の高騰が経営を圧迫したほか、米などの諸物価の上昇で生活が苦しくなった従業員による待遇改善を求めるストライキも頻発した。
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