かつての横浜市民の足「市電」にまつわる6つの謎 ビールを運んでいた?ロマンスカーがあった?
しかも、「ブレーキの止め方が不完全」だったらしく、乗客3人を乗せたまま自然発車。「急勾配の猿坂を全速力で疾走」し続け、事故に至った。この電車に乗り合わせていた郵便の集配人は、事故発生時の様子を次のように語っている。
「山元町終点に停車して居たあの電車に乗り発車を待つこと約三分間、すると電車がひとりでに動き出したので早く降りやうとしたが坂路のこととて速力が加はり降車の暇もなかつたが(中略)車橋上にさしかかつた際無我夢中で飛び降りた迄は判つて居ますが、それからあとは人事不省何もかも一切分らなくなりました」
一方、追突された506号車には、乗客乗員20人あまりが乗っていたが、「不意の大激動に俄(にわか)に将棋倒しとなり悲鳴を挙げ我を忘れて車外に逃げ出さんとして転倒し或ひは破れ硝子(ガラス)の為め重軽傷を負い」という大惨事となった。
同様の事故は1943年と1948年にも起きたが、用地買収の関係から山元町停留場の移設は進まず、ようやく平坦地(現・山元町バス停)に移されたのは1949年6月になってからだった。
戦間期の横浜に咲いた“華”
■Q4:横浜市電に「ロマンスカー」が存在した?
「ロマンスカー」と聞けば、誰しもが小田急ロマンスカーを思い浮かべると思うが、横浜市電にもロマンスカーが存在した。1936年に5両のみが製造された1100型(製造:梅鉢車両)である。
外観に流線形のモダンなフォルムを採り入れ、車内には2人掛けのクロスシート(ロマンスシート)とロングシートが組み合わせ配置されたほか、つり革や車内灯のデザインも、大変に凝ったものだった。このロマンスカー、特別感のある車両だったために人気が高かったという。
また、ほぼ同時期の1934年には女性車掌が登場した。「ホワイトの帽子、空色の上衣、紺のラシャのスカート」(横浜貿易新報1934年6月14日付)の制服に身を包み、「男性とは違ったなごやかなムードの接客態度に、女性車掌は評判も上々」「何台もやりすごして、女性車掌の電車を選んで乗る客もあった」(『横浜市営交通八十年史』)と市民から温かく迎えられた。ロマンスカーと女性車掌は、まさに戦間期の横浜に咲いた”華”といえよう。
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