金日成死去から30年・韓国人が流した涙の意味は 南北分断70年超、統一意識も薄れつつあるが…
訪朝を終え、韓国に戻ったカーター氏は、金日成氏から当時の韓国大統領である金泳三氏へのメッセージを携えていた。それはほかでもなく、「いつ、どこでも、無条件で金大統領と早い時期に会いたい」という内容だった。
南北はついに1994年6月28日、平壌で翌7月25日から27日まで、南北分断史上初の金泳三氏と金日成氏による首脳会談を開くことで合意した。カーター氏が伝えたメッセージの内容が明らかになったとき、「それでも南北首脳会談など夢のまた夢」といった冷めた見方も少なくなかったが、この合意は韓国国内を震撼させた。
メディアは、南北ちりぢりになって暮らす離散家族の声や対話派、強硬派それぞれの主張を手厚く報じた。良くも悪くも「何かが変わるのでは」という手応えを、ほとんどの韓国の人々が感じているということが、ソウルでの生活を始めてまだわずかな時間しか経っていない私にもよくわかった。
だが南北統一をも視野に入れるような、その熱い思いは、金日成氏の死去によって、はかなくついえる。
のどかな土曜の午後が急変
1994年7月9日のソウルは、朝から蒸し暑い日だった。韓国で「ハスクチプ」と呼ばれるまかないつきの下宿にいた私は、土曜日で語学学校の授業がないのをいいことに、朝食もとらず、遅くまで寝ていた。そんな中、下宿の主、ヨンギル爺さんの元気な声で跳び起きた。
「おい貴様、何時まで部屋で寝てるんだ!」
私の頭にとっさに浮かんだ一言は、「出た」だった。ヨンギル爺さんは戦前の皇民化教育を受け、旧日本軍に徴兵された。ご本人によると、シベリアで抑留され、筆舌に尽くしがたい厳しい日々を送り、何とか祖国にもどってきた。話を聞いていると、取材者として興味深い当時の状況がわかるのだが、今で言う鉄板ネタは「貴様」だった。
「上官が『貴様』というから最初、日本軍は丁寧で親切だと思ったんだ。だって、貴と様だぞ。おれたちのことをちゃんと尊敬してくれているのかと思ったが、まったく逆だった。おれはお前のことを敬意をこめて貴様と呼ぶが、それでいいか」
ゆっくりとではあるが、しかしまったく文法的にはおかしくない日本語で、そう言っては笑わせるのだった。
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