「違う」ものは、「違う」ものとして分をわきまえていたほうが、自分の身のためでもあるし、お互いにハッピーだというのである。
「同じなのに違う」のと同様、「違うのに同じ」こともまた、対話を阻害する要因になるのだ。嫌悪感が先に立つようでは、理性的な対話は望めないのである。
これは日本のみならず、どこの国でも多かれ少なかれ、ありうる現象なので、外国に住む場合は気をつけたほうがよいかもしれない。
また、日本人同士でも起こりうる現象である。私の友人が京都に移り住んだとき、近所の親切な方々から忠告されたという。京都に住むのなら、京都のしきたりは覚えなければならない。だが、京都人になってもいけない。よそ者としての分をわきまえていることが、京都で快適に過ごすコツだ──というのである。
要するに、「違い」を知ることは必要だが、「違い」を超えて「同化」しようとしてはならない、ということ。これは多様性を活用するための対話の基本である。自分の色と相手の色が対話的に混淆することで新たな色が生まれるのであり、相手の色に染まっているようでは、多様性も何もあったものではない。
対話において「同じ」という感覚は危険である。「同じ」という感覚は一瞬の安心感を与える一方で、破壊的な嫌悪感をも生み出すのだ。
日本教育大学院大学客員教授■1966年生まれ。早大法学部卒、外務省入省。在フィンランド大使館に8年間勤務し退官。英、仏、中国、フィンランド、スウェーデン、エストニア語に堪能。日本やフィンランドなど各国の教科書制作に携わる。近著は『不都合な相手と話す技術』(小社刊)。(写真:吉野純治)
(週刊東洋経済2011年9月17日号)
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