対話を破壊する要因(1) 同じなのに違うこと
「同じだから」、そして「同じなのに違うから」嫌悪する。この嫌悪は対話の成立を阻害するものだ。
意外に思うかもしれない。対話といえば、「わかりあえない」ことを前提としたコミュニケーション。知識や経験や価値観の共有が期待できない、絶望的な状況を想定した技法である。それに比べたら、多少の嫌悪感や「違い」があったとしても、「同じ」であるほうが対話は成立しやすいはずではないか。
ところが、対話という観点からすると、根本的に「違う」よりも、大体「同じ」ほうが、厄介な場合がある。まったく「わかりあえない」より、そこそこ「わかりあえる」ほうが困りものということだ。
外国人との対話に慣れた日本人の場合、「世界のどこの誰とでも対話できる」と自負していたりするのだが、意外にも日本人との対話に苦労することが多いという。
このように書くと、「それはきっと、その人が『日本人離れ』しているからだろう」と思うかもしれない。だが、「日本人離れ」しているのなら、その人にとって日本人は外国人と同じことになり、むしろ対話で苦労することはないはずである。
では何に苦労するのかというと、相手が自分と「ほぼ同じ」ことに戸惑うのだという。自分と「ほぼ同じ」なので、相手の考えていることが手に取るようにわかる──ような気がする。何となく「わかりあえる」ような気がする。しかし、「わかりあえる」というのでは対話が前提から崩れてしまうではないか。
「わかりあえる」と思っていたのに、ちょっとでも「わかりあえない」となると、手ひどく裏切られたような気がするものだ。「わかりあえない」ことを前提とする対話であれば、「裏切られた」と感じることなどありえないのに……。
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