かくして、自分とは「違う」外国人が相手ならば、理性的に対話できるのに、自分と「ほぼ同じ」日本人が相手だと、なぜか感情的なやり取りになってしまう。感情的対立は、往々にして非妥協的な態度を生み出す。こうなると、対話の成立する余地がなくなってしまうのだ。
中途半端に「同じ」よりも、徹底的に「違う」ほうが、対話は成立しやすい──皮肉な話である。
世界で頻発する民族紛争についても、長年にわたって対立してきた者同士の戦いよりも、それなりに共存してきた者同士の戦いのほうが悲惨な結果になることがある。紛争となると、民族間の「違い」や「積年の恨み」が強調されがちだが、意外に「同じ」であることや「積年の共存」が、対話の阻害要因になった可能性にも目を向けるべきであろう。
私たちは、大体「同じ」ならば、小さな「違い」は問題にならない、と考えがちである。だが、「同じ」だからこそ、小さな「違い」が絶対に許せないことがあり、そこから生じた生理的嫌悪感が、対話する理性を吹き飛ばすのだ。
自分と相手の色の混淆が多様な新しい色を生み出す
対話を破壊する要因(2) 違うのに同じこと
外国人が日本に住む場合、日本文化に無関心でいるよりも、深い関心を示したほうが(たとえポーズだけでも)、日本社会では生きやすいという。たどたどしくても日本語を操り、ぎこちなくても日本のしきたりに倣ったほうが、日本人は優しく接してくれるというのである。
ただし、決して日本人と完全に「同じ」になってはいけない。特に気持ちのうえで、「同じ」になったつもりになってはいけない。そうなった途端に、強烈な嫌悪感に遭遇することになるというのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら