対話の現場/言葉の意味を共有して対話的協働を実現する

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とはいえ、専門家の権威ある言葉は重い。整骨院で「腰痛」と診断されたと告げたら、それまで「そこは背中だ」と言い張っていた人も、「そこは腰だ」と認識するようになったのである。そして、現在に至るまで、その小学校の先生たちと顔を合わせるたびに、「北川先生、今日は『腰』は大丈夫ですか?」と気遣われるようになったのだ。

対話の当事者間で「意味」を構成する

厳密な対話論において、「言葉」とは「『わたし』と『あなた』の間に成り立つもの」と定義される。

この定義にはさまざまな内容が含まれるが、ここでは言葉の意味に限定して論じることにしよう。たとえば、対話において「背中」とは、対話の当事者、つまり「わたし」と「あなた」が背中だと思っているもののことである。医学的な定義がどうであろうと、辞書に何と書いてあろうと、関係ないのだ。

ただ、先述のように、「わたし」と「あなた」は同じ言葉を使っていても、その意味には微妙な(場合によっては大きな)ブレがある。そして、そのブレが問題になったとき、「わたし」と「あなた」は協働してブレをなくさなければならない。そこは「背中」なのか、それとも「腰」なのか、当事者間で合意形成するのだ。こうして、言葉の意味は対話的に構成されるのである。

意味のブレをなくすことができなければ、対話を続けるのは難しい。あるいは、意味のブレに気がつかないままでいると、後で大きな破綻を迎えることになる。

たとえば、「自然」という言葉について。緑色の植物がたくさん生えていることを「自然」と考える人にとっては、広大な田んぼは「美しい自然」に見えることだろう。だが、人によっては、「1種類の植物を人工的に大量に植え付けた不自然な風景」と受け止めるかもしれない。こういう人たちが一緒になって「自然を守れ」という運動をするとしたら、まずは「自然」という言葉について対話する必要があるだろう。

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