「日航機墜落事故」39年後に湧いた真相への疑問 時間の経過により見えてきた真実とは?

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松尾は慶應義塾大学工学部機械工学科を卒業して1954(昭和29)年4月に日航整備会社(1963年に日本航空に吸収合併される)に入社し、入社の翌年にはアメリカのカリフォルニア大学バークレイ校工学部に留学し、復職後は一貫して技術・整備畑を歩んだ日航生え抜きの航空技術者(航空エンジニア)である。

1930(昭和5)年9月30日生まれだから卒寿の90歳を軽く超えている。だが、そんな高齢とはとても思えない活躍ぶりで、IT(情報技術)の知識を駆使して運営するWebサイト(TOKYO EXPRESS)に自らの航空論文を掲載し、時間を見つけては好きなゴルフに打ち込む日々を送っている。

松尾に対する本格的な取材は2022年の春から始めた。新型コロナウイルス感染症が流行を繰り返すなかで、通常だったら高齢の松尾に対する取材は難しいだろう。だが、幸いなことに松尾はパソコンを使う能力にも長けていた。ファイルを繰り返し読みながら、メールで何度もやり取りすることができた。筆者は基本的にメールでの取材は避けているが、今回はメールという現代のツールがとても役に立った。

日航ジャンボ機 墜落事故 
日航123便の後部胴体の一部(写真は2006年4月19日撮影、書中ではモノクロで掲載:産経新聞社提供)

警察や検察による苛烈な取り調べ

ファイルを読み込むと、任意の事情聴取にもかかわらず、警察や検察が松尾の刑事責任を厳しく追及する様子がよく伝わってくる。群馬県警の取り調べでは「お前」「あんた」と呼ばれ、まるで殺人事件の容疑者のように何度も怒鳴られ、日航の刑事責任を容認するよう強要された。群馬県警の取調官に刑事責任があることを認める供述調書を強引に取られそうになったこともあった。

松尾に対する群馬県警の取り調べは、事故原因を特定した運輸省(現・国土交通省)航空事故調査委員会の事故調査報告書が公表された4カ月後の1987(昭和62)年10月29日から始まった。ファイルにはたとえば、こんなくだりがある。

〈「警察をなめるな」「俺の言うことがわからないのか」「こんなことでは逮捕勾留しての取り調べもあり得る」〉(1987年11月25日付)
〈「お前は諸規定を自分の都合の良いように説明している」「この調子で警察の言うことを理解しない態度を続けると取り調べはかなり長くなるぞ」「技術部としての責任を認めるべきだ」〉(同年12月9日付)
〈相手(群馬県警)側は時間切れをチラつかせて回答を急がせ、自分たちの意図する方向に調書を作ろうとする態度が見える。まったく油断できない〉(1988年4月27日付)
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