このように、会話のきっかけをつかんだり、社交の話題についていったりするためには、物知りであったほうが便利である。また、日本社会以外においても、「世間」に配慮する精神は、会話を円滑に進めるために重要な場合があるのだ。
ただ、会話から対話へと深めていくためには、紋切り型ではない「個人的意見」を主張することも必要になってくる。このように考えると、日本型の教育から始めてフランス型の教育に進むのが理想的、ということか。知識を教え込みながら、自分の意見を主張できるようにする──ただこれだけのことなのだが、なかなかバランスを取るのが難しい。それが教育の現実である。
対話の成立を阻止する世間に閉じこもる人々
最近、「やらせメール事件」など、ある意味で「狭い世間」に配慮した論理の横行が目立つ。
その背景には、国策としての原発推進や、巨大な電力会社の事情などがあるわけで、決して文字どおりに「狭い」わけではない。だが、普通の国民が「外」に置かれているという意味で「狭い」のである。
これまでに述べてきたように、その時点で自分の帰属する「世間」に対する配慮は必要である。ただ、その「世間」の論理は、ほかの「世間」では必ずしも通用しない。それを意識することなく、自分の「世間」に閉じこもっている人たちとは、対話のしようもないのである。
日本教育大学院大学客員教授■1966年生まれ。早大法学部卒、外務省入省。在フィンランド大使館に8年間勤務し退官。英、仏、中国、フィンランド、スウェーデン、エストニア語に堪能。日本やフィンランドなど各国の教科書制作に携わる。近著は『不都合な相手と話す技術』(小社刊)。(写真:吉野純治)
(週刊東洋経済2011年8月27日号)
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