今はなき「小田急モノレール」レア技術の塊だった 「向ヶ丘遊園」への足、日本に2例だけのシステム
一方、同じロッキード式でありながら、向ヶ丘遊園モノレールは2000年2月に運転休止されるまで、30年以上の長きにわたって運行が継続された。向ヶ丘遊園来園者の利用が安定的に見込めたのに加え、鉄道会社だけに、部品をある程度、自社工場で内製できたものと思われる。
しかし、最後は老朽化により台車に亀裂が入り、修理に多額の費用がかかることと、向ヶ丘遊園の来園者数も先細りになっていたことから、惜しまれつつ引退となったのである。
運転士に聞くモノレールのありし日
向ヶ丘遊園モノレールが実際にどのように運用されていたのかについて、小田急電鉄主任運転士の吉田博之さん(60)に話を聞いた。吉田さんは1982年に入社後、駅務係、車掌を経て運転士になり、1995年からモノレール運転の教習を受け、約1年間モノレールの運転業務に携わった経験がある。
――モノレールの運転に、特別な免許は必要でしたか。
通常の電車の運転免許と一緒です。モノレールの運転士をとくに募集していたわけではなく、幹部の推薦で指名された運転士が学科と実技教習を受け、見極め試験に合格するとモノレールの運転にも携われるという流れでした。モノレール専属ではなく、例えば、午前中は本線の電車を運転し、午後はモノレールを運転するといったシフトが組まれていました。
――中央の運転席が前方にせり出している変わった形状です。運転のしづらさやクセのようなものはありましたか。
最初は空中に浮いているような感じがして、少し怖かったですが、すぐに慣れました。ツーハンドルで、当時の2400形の電車と操作性が似ていたので、違和感はなかったです。
――どのような運転ダイヤが組まれていましたか。
通常は1時間当たり3往復でした。ただし、休日にショーが開催されるときなどは非常に混雑したので、前後の車両に運転士が乗車し、ピストン輸送を行いました。単線の軌道を1編成の列車が往復するだけの単純な運行形態だったので、柔軟に対応できたのです。それから、毎週水曜日(休園日)の午前中は運休にして、正門駅側でメンテナンスを行っていました(注:1999年7月以降は水曜終日運休)。
――速度制限や強風時の対応はどのようなものでしたか。
走行区間に応じて40、10、0km/hの速度制限の信号を受けて運転する「コード表示方式」が採用されており、最高速度は40km/hでした。また、鉄車輪だったので、どうしても通常の鉄道と同じようなキキィという音が発生します。騒音に関してご意見をおっしゃる方がお住まいの場所を通過する際には、徐行する配慮を行っていました。風速は20m/sを超えると運休でした。
――廃止時の思い出などはありますか。
2001年の廃止時には、私はモノレール運転業務をすでに離れていましたが、正門駅で「さよなら展示会(見学会)」が開催され、多くのファンの方が来場されたようです。
向ヶ丘遊園モノレールは2001年2月の廃止後、軌道は2004年までに撤去され、コンクリート桁の一部を切断したものがモニュメントとして、喜多見電車基地内に設置されているが、残念ながら非公開である。
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