今はなき「小田急モノレール」レア技術の塊だった 「向ヶ丘遊園」への足、日本に2例だけのシステム

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これらの特徴を総合すると、ロッキード式モノレールは都市内交通よりも、一般の鉄道に近い輸送需要に向いた仕様だったと理解できる。日本ロッキード・モノレールの説明資料にも、以下の一文がある。

「国鉄または私鉄における近郊輸送の行きづまった線区において、例えば、その上下線間に本方式を増設することにより、土地の新規確得(ママ)を最小限にして効果的な輸送力の増強がはかれることになる」

こうした次々と登場する新しいモノレールの技術を見聞するため、私鉄業界は1961年2月25日から2週間の日程で、欧州モノレール視察団を派遣した。団長は小田急の渋谷寛治専務が務め、京阪、名鉄の幹部らが参加し、ドイツのケルン市郊外に建設されたアルヴェーグ式の試験線と、フランスのオルレアン市郊外に建設されたサフェージュ式の試験線を視察している。

名鉄は翌年に犬山モノレール(アルヴェーグ式)の開業を予定しており、まさに着工しようとしていた時期だった。小田急も、わざわざ専務を派遣しているくらいだから、この時点でモノレールに関心を持っていたのは間違いない。

小田急はなぜロッキード式を採用したのか

小田急が向ヶ丘遊園モノレール(向ヶ丘遊園駅―向ヶ丘遊園正門間・約1.1km)の敷設免許を申請したのは、それから3年半後の1964年11月だった。それまで来園者の輸送を担っていた蓄電池式の「豆電車」を道路改修工事の関係で廃止せざるをえず、これに代わる交通手段が必要になったのだ。

小田急向ケ丘遊園モノレール
小田急線の向ヶ丘遊園駅付近を走行するモノレール車両(写真:川崎市市民ミュージアム所蔵)

当時、モノレールの規格として有力視されていたアルヴェーグ式ではなくロッキード式が採用されたのは、建設費が安かったのが理由だと言われている。小田急の資料によれば工事費は約2億4000万円であり、豆電車の線路敷をそのまま活用したことを考慮してもなお、非常に安く感じる(参考:同時期に開業した横浜ドリームランドモノレール5.3kmの総工費は25億円)。

小田急モノレールのルート図 川崎市地形図
川崎市地形図「五所塚」(1976年3月)の部分。中央上に二ヶ領用水と道路を跨ぐモノレール軌道および向ヶ丘遊園正門駅が描かれている。駅と隣接するボーリング場跡地は、現在「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」になっている(画像:川崎市地形図より引用)

導入の経緯について、小田急電鉄企画室課長(当時)の生方良雄氏が『鉄道ピクトリアル』誌(1970年4月号)に「(川崎航空機が)岐阜工場で試験線をつくりテストをしたが、後にそれを小田急が買い、向ヶ丘遊園の豆電車の代替として設置した」と記している。設備を含め、どこまで転用されたのかは不明だが、少なくとも車両は、客室扉の配置などに若干の改造を行ったうえで試験線用のものを転用している。おそらく安く譲受されたのだろう。

加えて、当時の鉄道業界が、鉄車輪式のロッキード式を高く評価していたことにも目を向けるべきだ。向ヶ丘遊園の来園者輸送は、イベント時には相当の乗客数が見込まれ、また、ゴムタイヤ方式の札幌地下鉄も開業前だった状況を考えれば、技術的な実績に基づく安全性を重視した判断がなされたと見るべきであろう。

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