今はなき「小田急モノレール」レア技術の塊だった 「向ヶ丘遊園」への足、日本に2例だけのシステム
こうして向ヶ丘遊園モノレールは1966年4月に開業したが、当時、モノレールには逆風が吹いていた。まず、1964年9月に先行開業していた東京モノレールが極度の経営不振に陥っていたのである。建設費が当初予定を大幅に超過したことから、高額な運賃を設定せざるを得ず、利用者が伸び悩んだのが原因だった。
また、ロッキード式を採用して1966年5月に開業した姫路モノレール(姫路駅―手柄山間1.8km)も、姫路大博覧会が開催された開業初年度こそ年間40万2967人の利用者があったが、1967年度は33万4517人、1968年度は24万5718人と大きく落ち込み、当初想定された年間100万人には遠く届かなかった。建設借入金の返済のために毎年1億円以上を市の一般会計から支払わなければならず、早くも姫路市の「お荷物」と言われるようになっていた。
さらに、同じく1966年5月に開業した横浜ドリームランドモノレールは、車両設計の不備などから、開業後わずか1年半で運行休止の措置がとられた(2021年10月6日付記事「運行わずか1年半「幻のモノレール」の経営実態」)。
製造会社が解散、姫路は路線廃止
このような事情から、モノレールはモノにならないという雰囲気が業界に広がり、1964年6月に設立されたばかりの日本モノレール協会は、早くも「会費収入の面に危機が現われた」(『日本モノレール協会 10年の歩みをふり返って』)という。
こうした状況に、運輸省からは「モノレールは機種が多すぎるが、これをどうするか」「羽田のモノレールなどをみてもまだ相当に改良を加えないととても都市交通に使うにはだめである」という考え方が示された。これを受けて、モノレール協会が、運輸省からの受託で「都市交通に適したモノレールの開発研究」(1967年度)に取り組むことになった。
この研究を通じてモノレールの規格が統一され、今後建設されるモノレールは「ゴム車輪を採用」(同研究報告書)するという方向が決定づけられた。すなわち、跨座型に関しては、二軸ボギー台車と小径のゴムタイヤを組み合わせた日本跨座式という新たな車両規格が生み出され、これに基づく車両が1970年3月から開催された大阪万博の会場周回路線で運行された(懸垂型はサフェージュ式を標準化)。
日本跨座型が統一規格と認定された結果、日本ロッキード・モノレールはモノレール事業からの事実上の撤退を余儀なくされ、1970年に解散。また、営業不振に加え、部品供給も途絶えた姫路モノレールは、1974年に営業休止に追い込まれた(正式廃止は1979年)。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら