大谷選手Instaで話題の「南部鉄器」9代目の挑戦 「ものづくりのバトン」を次の時代に渡すために

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実は菊地さんの40年の人生は、昭和から平成、令和にかけての南部鉄器業界の盛衰に大きな影響を受けてきた。

菊地さんが小さかったころの南部鉄器業界は、往時ほどの勢いはなかったもののまだ安定した生産量があり、祖父や父、叔父とともに働く職人たちにかわいがられて育った。自ずと工芸や美術への関心が深まり、美大への進学を希望するようになった。

スワローポットを前に、これまでの経緯を説明する菊池さん
スワローポットを前に、これまでの歩みを語る菊地さん(写真:筆者撮影)

しかし、高度経済成長を経て、大量生産・大量消費の浸透とともに工芸は衰退し始める。南部鉄器も例外ではなく、バブル期以降は2000年代後半まで生産量の縮小が続いた。

菊地さんが多感な少年時代には「及富」の経営も厳しい時期が続き、職人の退職が相次ぎ、工房の雰囲気もかつてのような明るいものではなくなっていた。

家業の厳しい実情を目の当たりにした菊地さんは美大進学を断念し、高卒で働き始めた。

そこから自分探しを続けた菊地さんの最初の転機は、岩手県沿岸部でも甚大な被害を出した2011年の東日本大震災。当時、働かずにひきこもり生活をしていたが、未曽有の事態を前に「立ち上がるしかない」と奮起し、定職を探し始めた。

その後、ひきこもり時代からの数少ない知人だった女性と結婚し、第1子が誕生。

「子どもが生まれたことで、代々受け継いできた仕事を次の世代に引き継いでいくことの大切さが身に沁みた」という菊地さんは、それまでは折り合いが良くなかったという父・章さんに頭を下げて工房に入った。

「爆買い」ブームで中国で人気

ちょうどそのころ、岩手県が2010年の上海万博に向けて力を入れていた南部鉄器の対中輸出戦略が功を奏し、最高級プーアル茶で有名な上海大河堂との連携によって、中国の富裕層に鉄瓶が浸透。

さらに「爆買い」と揶揄されたほどだった訪日中国人観光客の購買意欲が高まる中で、南部鉄器が広く知られるようになり、人気土産品の地位を確立。

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