埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 東武・西武・南武以外に実は「北」もあった
馬車鉄道の経営が振るわなかった一方、行田の足袋は、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)を通じて軍用足袋の特需がもたらされるなどした結果、「生産量は飛躍的に増大」(『行田の歴史:行田市史普及版』)していた。明治10年代後半に年間生産高50万足程度だったのが、明治30年代後半の1905年には445万足に達している。
こうした忍町の商工業の著しい発展に着目し、北埼玉エリアを横貫する鉄道を敷設しようという計画が、ここにきて再び持ち上がった。そして、その運動の中心にいたのは忍町の商工業者ではなく、羽生や加須の人々だった。
羽生の人たちは、熊谷―忍―羽生間を結ぶ北武鉄道を計画し、一方、加須の人たちは、熊谷―忍―加須―栗橋間を結ぶ埼玉鉄道を計画した。ほかにもいくつかの計画があったようだが、最終的にはこの2路線が競願となり、「北武鉄道側の勝利に帰した」(1911年3月9日付「国民新聞」)のである。
「二束三文に買収さるるが落ち」
だが、この北武鉄道計画に対して忍町の人々は、当初は興味を示さなかったといい、実際、発起人に忍町の商工業者は含まれていなかった。
その理由はいくつか考えられるが、まず、忍町の人々は横貫鉄道の必要性は認識していたものの、これまでに前述の北埼玉鉄道をあきらめ、自分たちの手で馬車鉄道を敷設した経緯がある。だから、「なにを今さら」「どうせ、またモノにならないだろう」という思いが、少なからずあったはずだ。
また、1917年7月8日付の「国民新聞」記事に「(北武鉄道の)将来の営業成績を観るに何れの方面より観察するも不振なるは予想するに難からず結局は東武鉄道等に二束三文に買収さるるが落ちにて」と記されているのは注目に値する。当初、羽生の有志の人々による活動だった北武鉄道計画は、敷設免許下付後には、東武鉄道社長の根津嘉一郎が取締役に就任し、筆頭株主にもなっていた。こうした大資本による実質的な経営支配の動きを、地元の人たちは嫌ったのである。
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