埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 東武・西武・南武以外に実は「北」もあった
こうした経緯から、行田―熊谷間の延長工事の一部は秩父鉄道によって施工され、1922年8月に羽生―熊谷間の全通(約14.9km)を果たし、その直後の9月に秩父鉄道に吸収合併されている。実際には合併に先んじて、8月から秩父鉄道による営業が行われていたようだが、書類上の日付だけを見れば、全通後、わずか1カ月で他社に合併されたことになる。
ここで疑問に思うのは、なぜ当初は北武鉄道の経営に意欲的だった東武鉄道ではなく、秩父鉄道と合併したのかということである。『秩父鉄道五十年史』には、「当時東武鉄道には、合併の意思がなかった」とわずかに書かれているにすぎない。
当時の東武鉄道による他社線の合併について見ると、1920年7月に東上鉄道(現・東武東上線)と対等合併している。東上鉄道は根津嘉一郎が社長を兼務し、東武とは姉妹企業のような関係にあり、純粋なM&Aではなかったが、それ以前にも東武は佐野鉄道(現・佐野線)、太田軽便鉄道(現・桐生線)を合併するなど、合併による路線拡張を行っている。
「東武+北武」なぜ実現しなかった?
しかも、1920年時点においても、依然として東武鉄道は北武鉄道の筆頭株主であり、また、北武鉄道の本社所在地を「免許の下付にともない羽生町から東京市の東武鉄道本社内に変更」(恩田論文)するなど、北武鉄道への関心を失っていたわけではない。さらに当地方の中心都市である熊谷への接続も魅力的だったはずである。
詳細の事情は不明だが、根津嘉一郎が1922年5月の臨時総会で秩父鉄道の取締役にも就任(北武鉄道取締役の資格において)していることから、全体としての調整を図ったということなのだろう。
なお、行田馬車鉄道は北武鉄道開業によって打撃を受け、間もなく廃止された。『行田市史(下巻)』には「大正十二年末に(線路が)取り外されて、文字通り終止符を打った」と記されている。馬車鉄道の廃止にともない行田自動車に改組され、自動車貨物運送および乗合自動車事業にシフトしていったのである。
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