埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 東武・西武・南武以外に実は「北」もあった

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江戸時代には忍藩の藩領となり、享保年間(1716~1736年)に、忍藩主が藩士の婦女子に内職として足袋(たび)づくりを奨励したことから、足袋の生産が盛んに行われるようになった。明治20年代半ば以降は、ミシンや裁断機が導入されるなど機械化が進み、生産量が増大。同じく当地の著名な物産品である藍染め織物の「青縞(あおじま)」などとともに、各地に出荷するための効率的な輸送ルートが必要となった。

ところが、忍町は地域の商工業の中心でありながら、19世紀末~20世紀に至っても、なお鉄道空白地帯だった。

当時の北埼玉地域の鉄道の敷設状況を見ると、1883年7月に私鉄の日本鉄道によって、現・JR東北本線・高崎線の上野―熊谷間(日本鉄道第一区線)が開業し、1885年3月に吹上駅が開設されたが、忍町の中心からは4kmも南に離れていた(熊谷駅までは約6km)。

その後十数年を経て、1899年8月には東武鉄道が現在の伊勢崎線の北千住―久喜間を開業。1903年4月に川俣駅までの延伸にともない羽生駅が設置されたが、忍町の中心からは8km以上の道のりであった。さらに秩父鉄道(開業時は上武鉄道)が1901年10月、熊谷―寄居間を開業させたが、熊谷駅までは前記の通り約6kmの距離があった。

熊谷駅
近年の熊谷駅。同駅は1883年に開業したが、忍町中心部までは約6km離れていた(写真:イデア/PIXTA)

足袋の出荷へ「馬車鉄道」計画

そのため、忍町発の貨物は鉄道駅まで陸路で運ばれたが、「行田からは、加須を経て栗橋に至る県道はあるが、ひどい悪路」(『埼玉鉄道物語』老川慶喜著)だったため、忍町から主な販路である北関東・東北・北海道などへ製品を出荷するには、貨物を吹上駅(日本鉄道第一区線)に運んだ後、大宮駅や秋葉原駅へ移送し、日本鉄道第二区線(現・東北本線)に積み替えなければならず、時間と余分な費用がかかった。

こうした状況下で切望されたのが、北埼玉地域を横貫する鉄道路線であり、実際にいくつかの路線が計画された。そのうちの1つ、北埼玉鉄道(熊谷から忍、加須を経て、日本鉄道第二区線の栗橋までを結ぶ計画。1895年11月出願)の資本構成を見ると、東京市(当時)在住者が株主の過半を占めていたが、忍町の有力商工業者も名を連ねており、地元の期待の高さがうかがえる。

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