埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 東武・西武・南武以外に実は「北」もあった

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このように地元での理解が不十分なままでは、資金集めも思うように進まず、増資が必要になった際も、沿線割り当て分の出資交渉が難航した。そうこうするうちに1918年4月、北武鉄道の敷設免許は失効してしまう。

それでも、北武鉄道は解散することなく再出願を目指すが、ここで状況に大きな変化が生じた。それまで北武鉄道計画に対して距離を置いていた秩父鉄道が出資を言明したのだ。1919年3月6日付「国民新聞」に、次の記事がある。

「秩父鉄道が極めて冷静の態度に出で同問題(注:北武鉄道建設)の渦中に入る事を絶対的に回避し来れるが今度の新運動(注:再出願)に向つては秩父会社の幹部が公然同鉄道布設の有利有望なるを言明し相当株引受を約するに至りたる」

国民新聞 1919年3月6日付記事
1919年3月6日付「国民新聞」記事(当時の紙面より引用)

全通後1カ月で秩父鉄道と合併

この秩父鉄道の態度の変化には次のような事情があった。秩父鉄道は1917年9月に影森駅まで延伸し、1918年9月には影森―武甲間の武甲線(貨物線)を開業。セメント原料である武甲山麓の石灰石輸送を開始した。当時は浅野総一郎率いる浅野セメント(現・太平洋セメントの一源流)が、東京の深川工場の降灰問題を解決し、操業継続を決定するとともに、1917年7月からは新たに川崎工場の操業を開始するなど増産体制に入った時期であり、絶好の商機だった。

石灰石 武甲山
石灰石の採掘により山容が変形した武甲山。急激に変形したのは戦後の高度経済成長期以降(筆者撮影)

秩父鉄道は熊谷駅で官営鉄道と接続しており、東京方面への貨物出荷は可能であったが、運賃低減の観点から、北武鉄道を介して東武鉄道との連絡輸送を行うことが有望視されたのである。こうして事業の成算が立ち、北武鉄道はようやく着工にこぎつけることができた。

そして、1921年4月、最初の出願から11年を経て、ようやく羽生―行田(現・行田市)間が開通した。その後、資金不足から北武鉄道経営陣は、東武鉄道と秩父鉄道に合併を打診。これに応じた秩父鉄道との間で1922年4月に合併の協議(仮契約)が行われた。

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