朝鮮出兵時の「耳鼻削ぎ」は常軌を逸していた 手段と目的が倒錯して起こる"狂気"
秀吉の朝鮮出兵をどう評価するかについては、昨今様々な意見がある。当時においてはそれなりの勝算があったのではないかとするものや、現代の倫理的価値観で侵略行為と決めつけることに対する異議などである。
が、本書で「朝鮮出兵時の耳鼻削ぎ」の顛末をみると、そこには常軌を逸した風景がみえてくる。それは第二次朝鮮出兵・慶長の役の記録である。
戦国時代には戦闘地域の住人を拉致して売りとばす「人取り」という行為が一般的に行われていたのだそうだ。望ましい行為とはいえないが、そうした「戦利品」をむげに禁じても戦意があがらない。ここで秀吉は念の入った指示を出す。集めた鼻が枡一升分になったものから住民の生け捕りを認める、というのである。
鼻を削ぐことが目的化
出兵した大名たちは、鼻削ぎに奔走する。なにしろ鼻があればよいのだから、非戦闘員である女子供も捕まえて、鼻だけいただくということも横行したようだ。そんなありさまでは、討ち死にした味方の鼻でさえ数に入っていなかったといえるだろうか、などと想像したくなる。それらの鼻は秀吉の軍目付によりきっちり勘定され、各大名家に受取状が発給されている。それらを集計すると、吉川家18350、鍋島家5444、黒田家8187、といった具合に、端数まで記録されている。
武士の戦いにおいてもっとも大切なのは戦功であり、耳鼻削ぎはあくまでその結果を示すためのものだったはずだが、慶長の役においては鼻を削ぐことが目的化した。膨大な数の人の鼻を日本まで送り、かつそれをひとつひとつ数えては帳面に書き付ける場面を想像しながら、「手段と目的がひっくりかえるとき、人も、集団も、正気を失うのかもしれない」と思わされる。これからさき、この国に耳鼻削ぎの風習が蘇ることはないだろうが、手段と目的が倒錯しておこる狂気は、形をかえて、何度でも起こるものだろう。
さて、耳鼻削ぎの風習は日本のみにあったわけではない。中国と朝鮮半島の王朝以外の前近代のユーラシア大陸ではあちこちでみられる、普遍的な習俗だともいえるのだそうだ。ならば日本はいつ、どういう経過をたどって耳鼻削ぎから「卒業」できたのかも興味深く、これも本書で考察されている。
“耳鼻削ぎ”という一見グロテスクな言葉をキーワードにしながら、その時代の空気と、そこに生きる人々の価値観を実感させてくれる一冊である。
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