国民保守主義も「意識高い系」も自由を滅ぼす 表面的には対立する理念が実は通じ合う逆説
どうして、そうなるのか?
国民保守主義から見てゆきましょう。
多数派の意向に合わせた権威主義
イギリスの週刊紙「エコノミスト」は最近、国民保守主義について次のような趣旨の論評を掲載しました。
いわく。
国民保守主義は国家による統制を重視し、「意識高い系」を否定する保守主義であり、国家主権を個人より尊重する。
レーガンやサッチャーのような1980年代の保守主義者と異なり、彼らは「大きな政府」にたいして懐疑的な姿勢を取らない。国民保守主義者は、巨大なグローバリズム勢力が人々を追い詰めていると見なしており、それを救えるのは国家だけだと構える。
市場経済はエリートによって不当に支配されており、移民などとんでもない。政治的多元主義はロクなものではなく、わけても多文化共生は論外だ。国民保守主義がとくに執着するのが、「意識高い系」の発想とグローバリズムに毒されていると見なした組織や制度を解体することである(「国民保守主義の危険性」、2024年2月17日号。拙訳、以下同じ)。
多元主義を嫌い、国家主権を個人より尊重するのですから、国民保守主義は必然的に「社会の多数派の意向」(より正確には、国民保守主義者が「多数派の意向」と見なすもの)に合わせた権威主義をめざす。
けれども中野剛志さんたちとの共著『新自由主義と脱成長をもうやめる』(東洋経済新報社、2024年)で指摘したとおり、自由民主主義が機能する条件は、さまざまな中間団体を通じて多元的な利害調整が行われること。
つまり国民保守主義は、自由民主主義を否定する性格を持ちます。
しかも少数派に属する人々の意向は抑圧して構わないとくるのですから、ナショナリズムを志向しようと、実際には国民統合を解体しかねない。
看板に偽りありと言うか、自滅的と言うか。
「国家保守主義」としたほうが適切かもしれませんが、何にせよ、これで経世済民が達成できるとは信じられません。
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