国民保守主義も「意識高い系」も自由を滅ぼす 表面的には対立する理念が実は通じ合う逆説
ならば国民保守主義が反発してやまない「意識高い系」は、自由を守り、経世済民に貢献する理念なのか?
それが違うのです。
とくに曲者なのが「意識高い系資本主義」。
次はこの点を見ることにしましょう。
正しさに酔ったあげくの独善
そもそも「意識高い系」とは何か?
これを理解するうえで役立つのが、組織論の専門家カール・ローズの著書『WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』(東洋経済新報社、2023年)です。
「意識高い系」の原語「woke」は、目覚めているという意味。
「進んだ考えを持っていること」、ないし「社会的な問題の存在について自覚的であること」を指します。
もともとはアメリカの黒人の間で使われた一種の隠語でしたが、1960年代、変革の気運が社会的に高まるのと前後して、より広範な層に浸透してゆく。
今や人種問題はもとより、同性婚、ジェンダーの平等、経済格差、気候変動、動物の権利といったさまざまな事柄について、進歩的、つまりリベラルな考えを持つことが「woke」と呼ばれるようになりました。
ただし同時に、言葉のニュアンスも変わってくる。
「広い視野を持ち、しっかりと物事を考える」という肯定的なものから、「偽善的なキレイゴトをしたり顔で並べ立てる」という否定的なものへと移行していったのです。
日本語の「意識高い系」など、2010年代に使われ出したこともあって、はじめから「本当には意識が高いわけではない」という揶揄の意味合いを帯びていました。
これもまた無理からぬことでしょう。
「意識高い系」が掲げる問題意識は、少なくともタテマエとしては否定しづらいものばかり。
裏を返せば、自分の正しさに酔いやすくなる。
「オレたちの高邁な理想に賛同しないヤツはバカ」という独善に陥るのです。
口でこそ「多文化共生」を唱えたがるものの、実際には意見の違う者を認めるつもりがなかったりするんですな。
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