道長の兄「藤原道隆」弟にさらけ出した見苦しい姿 死ぬ間際まで飲むことや飲み友達を考えていた
兼家は、出家とともに、嫡男の藤原道隆(38歳)に氏長者と関白を譲っていました。
道長はこのとき、25歳でした。兼家が亡くなる年の1月、道隆の娘・定子は、一条天皇のもとに入内しています。そして同年10月には、女御から中宮となるのです。
道長は当時、権中納言でしたが、自身の姪に当たる定子の中宮大夫(中宮のお世話をする役割)にも任じられます。これは、兄・道隆の取り決めでしたが、道長は不服だったようです。『栄花物語』によると「面白くない」と言って、中宮のもとには寄り付かなかったといいます。
道隆は、父・兼家が重篤であるにもかかわらず、娘・定子の立后を進めていたようで、世間からも「父上が重篤であるのに、なぜ、立后を延期されようとしないのか」と反感を買っていました。
道長が「立后とは何だ。面白くない」と言って、中宮・定子のもとに参上しなかったのには、道長の心中にも、そうした想いがあったからでしょう。道隆は、自らの野心を優先したと、人々から思われたのです。
翌年(991)2月には、円融上皇が病気を患い、崩御されます。上皇の女御の1人には、道長の姉・詮子がいました。その年の秋に、詮子は出家、東三条院と号するのです。
さて、藤原氏の氏長者となった道隆ですが、995年には亡くなってしまいます。
道隆が亡くなった原因
疫病が大流行しているときに亡くなったのですが、『大鏡』によると、道隆の死因は疫病によるものではなく、乱酒のせいだとあります。つまり、道隆は大酒飲みだったというのです。
「男は上戸」(酒が好きでたくさん飲める)などと言って、飲酒することを人生の楽しみの1つとしていたようですね。
賀茂祭の見物の際にも、酒がめを作らせて、それに酒を入れて飲みつつ、見物していたとのことなので、相当なものです。車のなかで見物していたのですが、飲めば飲むほど酔ってしまい、ついには、車の前後の簾をすべて巻き上げてしまいます。それだけではなく、烏帽子を外し、髻(もとどり)もあらわになってしまいました。
当時、髻をあらわにするということは、大変恥ずかしいことと考えられていたので、『大鏡』にも道隆の様子を「見苦しい」と記されています。
ぐでんぐでんに酔い、前後不覚となった道隆。装束を乱し、人に介抱されながら、帰宅しました。迷惑と言えば迷惑、大胆と言えば大胆です。
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