『いいとも!』復活望む根強い声、その深い理由 つながりの面白さと「広場」としての役割

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一方で、仲良くワイワイやる輪に入ることが苦手な出演者もいたに違いない。

だがそうした出演者にとっては、タモリがいた。「グランドフィナーレ」で出演者が口々に語ったように、タモリは、どんなひとでもすべてを受け入れる「怒らない」司会者だった。

そしてそれぞれの相手に応じて絶妙な距離感をつくり出し、出演者の思わぬ個性を引き出した。そのうえでハブのような役割を担い、誰でもそこにいられる雰囲気を番組全体に醸し出していた。

モデルで俳優の栗原類は、テレビに出演してもとりわけ物静かで、自分から他人に積極的に絡んでいくことはめったにない。そうしたところが「ネガティブモデル」として逆に人気にもなった。

ただ本人は、それをダメだとは思っていないし、自分を崩したくはないと考えてもいる。

そんな栗原類も2012年10月から番組終了までの1年半、『いいとも!』のレギュラーを務めた。

そのなかで、基本的な自分のスタンスは崩さない一方で、年末のスペシャルで披露される番組恒例のレギュラー出演者による物真似では、イメージとは180度異なる江頭2:50に扮してあっと驚かせてくれた。そこには、彼だけの馴染みかたがあった。

『いいとも!』は広場的空間だった

以上のことから見えてくるのは、ここまで何度かふれてきた『いいとも!』の広場性である。

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たとえば学校や家族といった集団には一定の社会的役割があり、そこに属するためにはなんらかの条件があるとされている。その条件は法律で定められていたり、伝統や慣習で決まっていたりとさまざまだ。

だがいずれにせよ、場合によっては、それに馴染めないとか、窮屈に感じるひとたちもいるだろう。

それに対し、広場は本質的にどんなひとも許容し、包摂する場所である。そこでは、職業や地位、国籍、性別、年齢など属性だけでポジションが決まるわけではない。出入りも基本的に自由だ。

『いいとも!』は、そんな広場的空間であった。

太田 省一 社会学者、文筆家

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おおた しょういち / Shoichi Ota

東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。現在は社会学およびメディア論の視点からテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、音楽番組、ドラマなどについて執筆活動を続ける。

著書に『刑事ドラマ名作講義』(星海社新書)、『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『水谷豊論』『平成テレビジョン・スタディーズ』(いずれも青土社)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)など。

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