当初、タモリを昼の番組の司会に起用することには疑問の声が少なからずあった。イグアナの物真似やでたらめ外国語などの得意芸から明らかなように、大衆受けとはほど遠い怪しげな「密室芸人」のイメージが強かったからである。
実際、初回放送の視聴率は4.5%と芳しいものではなかった。
ただ、1982年10月のスタートから数カ月が経った同年末から年明けの頃にはもう視聴率は二桁を超えることもあるほど良くなっていた。
そしてスタートから半年も経つと10%台を記録する日が増え、1983年の夏頃には二桁は当たり前で20%を超える日すら現れるようになった。
番組ディレクターだった「ブッチャー小林」こと小林豊は、なぜ番組開始数カ月後に視聴率が上昇したのかについてこう答えている。
「やっぱり『テレフォンショッキング』で次の日のゲストをその場で決めてつないでいくっていうのがだんだん浸透して、『明日は誰なんだろう』っていう興味じゃないですかね。そこに至るまで2〜3カ月かかったということですよね」
つまり、現場のスタッフも感じていたのは、『いいとも!』における「つながり」の面白さだった。「テレフォンショッキング」を見る視聴者には、普段知ることのできない芸能人や著名人の交友関係へののぞき見的な興味もあっただろう。
だがそれだけではなかったはずだ。
その日のゲストが次のゲストの名前を明かさず電話をしたときの、まずどのような声が聞こえてくるのかというワクワク感、そしてその声の主が誰であるのかわかったときの驚きといった興奮がなければ、面白さは半減したように思う。
そこには、「いったい誰につながるのだろう?」というような、予測できないからこそ生まれる人と人との「つながり」の魅力があった。
日本テレビ(当時)の徳光和夫と小林完吾、TBSの安住紳一郎といった他局のアナウンサーが局の壁を超えて出演したケースなどは、その一例だろう。
橋田壽賀子がレギュラー出演
そしてそんな「つながり」の魅力は、「テレフォンショッキング」だけのものではなかった。むしろ『いいとも!』という番組全体が、さまざまにつながることをベースに成立していたと言っていい。
ジャンルを超えたレギュラー出演者の組み合わせも、そうした「つながり」の例だろう。
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