紫式部と伯父・為頼の関係はどのようなものだったのか。為頼は自身の歌集『為頼集』を残しており、そこには次のような和歌がある。
「夏衣 薄きたもとを頼むかな 祈る心の隠れなければ」
現代語訳としては「夏衣の薄い袂を頼みにしなさい。あなたの無事を祈る私の心は隠れることはないのだから」といったところだろう。これは、紫式部が越前へと向かうときに、為頼が「小袿」という上着のたもとにいれた、和歌だと言われている。
時期としては、紫式部の父・藤原為時が越前守に任命されたときで、紫式部も同行することになった。旅立つ姪・紫式部を心配する伯父・為頼の思いが、この和歌には凝縮されている。
もう1人の伯父の為長もまた歌人で、『後拾遺和歌集』には1首が掲載された。だが、為頼のように紫式部と交流があったのかどうかは記されていない。
天元3(980)年頃に陸奥守に任ぜられたようだ。さらに『為頼集』には「はらからの陸奥の守亡くなりての頃」という記載があるため、為頼よりも早くに亡くなったらしい。
紫式部が最もリスペクトした歌人
漢学に優れた父に、和歌に優れた2人の伯父。さらにさかのぼれば、この3人の父方の祖父、つまり、紫式部にとって曽祖父にあたるのが、藤原兼輔である。
藤原兼輔は、「三十六歌仙」の1人に数えられるほどの和歌の名人で、従三位、中納言兼右衛門督まで昇進した。こんな作品を残して、小倉百人一首に選ばれている。
「みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ」
みかの原を湧き出て流れる泉川よ、その人をいつ見たといっては、恋しく思ってしまう。本当は一度たりとも見たこともないのに……。
紫式部は、この兼輔から伯父の為頼、そして父の為時へと受け継がれた邸宅で、生まれ育った。兼輔は「堤中納言」の名で知られたが、それは邸宅が鴨川の西側の堤防に接しており、「堤邸」と呼ばれたことに由来している。
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