そんなふうに、後世にも影響を残した『小右記』は、紫式部の実存を裏づけるのにも、一役買っている。
藤原実資が一条天皇の皇后である彰子の御殿へ出入りしていると、いつも同じ女房が取り次いでくれたのだという。
長和2(1013)年5月25日には、日記『小右記』に次のように記している。
「今朝帰り来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う」
さらに、この女房のことを「越後守為時の娘」と説明しており、越後守を務めていた藤原為時の娘、紫式部のことだということがわかる。
紫式部がいつ生まれたのかは諸説あり、970(天禄元)年とする説や、973(天延元)年とする説などがある。また「紫式部」は宮中での呼び名で、本名ではない。生年も本名もはっきりしていないことを思えば、「記録魔」ともいうべき、実資の筆マメさによって、上記の1行が書かれた意味は大きく、貴重な記録だと言えるだろう。
紫式部に限らず、平安時代において、天皇の后や子供でもなければ、女性の記録が残されることはなかった。それでも、男性側の記録は残っているので、紫式部の家庭環境を紐解くことはできる。バックグラウンドを見ていこう。
花山天皇の出家でダメージを受けた兄弟
紫式部といえば、その文学的素養に、漢学者の父・為時が「惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」(つくづく残念だ。この子が男子でないとは、なんと私は不運なんだろう……)と嘆いたというエピソードがよく知られている。
紫式部は、父の為時の影響下で、漢学や漢詩の才を育むことになったが、和歌の才は為時の兄、つまり、伯父の為頼から受け継いだものかもしれない。為頼の和歌は『拾遺和歌集』に5首選ばれ、勅撰集に11首も載せられられている。
紫式部の父・為時はなかなか官職を得られなかったが、兄の為頼はそれなりにうまく立ち回ったようだ。安芸権守・丹波守と地方官を兼ねながら、花山天皇が即位後は、従四位下にまで昇進を果たしている。
だが、寛和2(986)年に、花山天皇が出家して退位したことによって、為頼の出世も停滞する。弟の為時も同じく官職を解かれていることから「寛和の変」によって、兄弟でダメージを受けたことになる。
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