92歳「嫌われた"球界の最長老"」広岡達朗の真実 プロ野球の「洗礼」で目覚めた広岡野球の原点
この出来事によって、広岡にとって「プロとは何か」を考えるようになる。
通常なら早稲田の先輩である南村が、後輩の広岡に目をかけてあげるものなのに、容赦ない鉄槌を下す。そして手を差し伸べてくれたのが、慶應大学出身の宇野。たまたまかもしれないが、これにも意味があると感じるのはもっと後のことだ。
広岡は、どこかで驕りがあった自分を恥じた。褌を締め直さないと。新たな再スタートとなった。
広島時代の井上弘昭に「基礎の何たるか」を教える
1969年の秋季キャンプから、新たに広島東洋カープ守備コーチに就任した広岡達朗がやってきた。1966年に巨人を引退してから3年余り。年齢はまだ37歳で、動きを見る限り現役時代さながらのようだ。
広岡にとってはアメリカでの野球留学を終え、評論家活動を2年間やった後の初めてのコーチ稼業。クールに見えても、身体中に闘志が漲っているのが一目瞭然だった。
まずは井上弘昭を含め、ピッチャーから野手に転向した西本明和、苑田聡彦など、内野にコンバートされた選手を徹底的に鍛え直した。
「カキーン」「違う!」「カキーン」「ダメ!」「カキーン」「ボケ、なんしょーる!」
ノックバットを片手にダメ出しの連続。広岡の銀ブチ眼鏡の奥のまなざしが井上に突き刺さる。
「そうじゃない」「ダメだ!」。頭ごなしに否定されるものの、広岡は具体的な指示は一切出さない。
「違う、こうだ!」。広岡はノックバットを投げ、グラブを持って井上らがいる位置へ近寄ってくる。
「いいか」とだけ言って、自ら手本を見せる。ノックされた打球を、吸い込まれるようにグラブで捕球する。
あまりに無駄のない華麗な動きに、井上たちは呆気に取られた。もし野球を知らない者がこの光景を見ても、「この中で誰が一番うまいか」と尋ねられれば、誰しもが真っ先に広岡を指しただろう。
手取り足取り教えることもなく、自分で手本を示すだけ。これが広岡のやり方だった。井上がその後やらされたことは、真正面の緩いゴロを転がして捕る練習だった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら