「コロナ禍の前は下北沢のライブハウスでずっと歌ってました。当時はお客さんも2~3人とか全然いなかったんですけど、ライブすることでシンガーソングライターをやってるという気持ちを作っていたというか……。それもほとんど(チケットノルマの)お金を払って出ていたんですけどね。今思えば大変な時期でしたね」
2012年、シンガーソングライター野田愛実は、下北沢の小さなライブハウスを拠点に歌っていた。地元、三重県松阪市から大学進学のために上京。大学では建築学を専攻し、建築サークルに所属。
学生生活を送る傍らでシンガーソングライターとして曲作りをしながら、下北沢のライブハウスで曲を披露していた。
下北沢を活動拠点としたのは、この地にシンガーソングライターの聖地としての印象が強くあったから。そして大学も近く通いやすいこともあった。
補足すると、ライブハウスではアーティストが複数組集まり、順番に自分の持ち時間(20~30分程度)内に曲を披露する「対バン」と呼ばれる形式が今でも一般的なものになる。
駆け出しのシンガーソングライターが集うイベントでは、チケットノルマが課されることも多く、例えば3000円×5枚という感じで、集客できないアーティストは自身で身銭を切って支払わなければならない。大学時代の野田も、そういったアーティストの一人だったわけである。
そんな環境で歌い、曲を作っては音楽系のオーディションを受ける日々。それが野田の日常だった。
「まるで前進しない」気持ちの日々
2015年、最初の転機が訪れる。愛知県名古屋市で行われたZIP-FM主催のオーディションに参加しグランプリを獲得する。
そして同社のレーベルよりミニアルバムをリリースしインディーズとしてデビューする。グランプリ受賞からインディーズデビューと周囲からは勢いがついたかに見えたが、野田自身は手ごたえを感じていなかった。
「インディーズとしてデビューして、もちろんいろんなことは勉強できたんですけど、なんか全然何もないな、みたいな苦しみがあって。SNSもTwitterやインスタもたまにカバーとかも上げていたけど、バズるとかもなくて……」
大学卒業後は勉強ができたこともあり、大学院に進学。学生として音楽を続けるというスタイルがそのまま続いた。
2018年、修士課程を修了。その後、建築会社でアルバイトをしながら、音楽活動を続けていた。
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