葛飾北斎を世界の浮世絵師にした「ヤバい先輩」 天才画家ゴッホも絶賛、北斎の創作活動の原点
屈辱に北斎は打ち震えんばかりでしたが、相手は兄弟子です。逆らうことなどできません。その場はなんとか怒りを抑えて、北斎は心で誓いました。
「私は、世界一の画工になる! 絶対になるぞ!」
それからというもの、北斎は師に内緒で、ほかの絵師のところにも通うようになります。ルール違反でしたが、兄弟子を見返すためには、もっともっと上手くならなければならないため、こうするほかありませんでした。
結局、そのことがバレて、破門にされてしまいます。それでも、北斎は画法を変化させながら、様々な様式にも挑戦。実に70年間にも及ぶ創作活動で、膨大な数の作品を残しました。
最初こそは、兄弟子を見返すために、必死に腕を磨いていた北斎でしたが、次第に、修行そのものに夢中になっていきました。北斎は兄弟子の仕打ちについて、のちにこう振り返っています。
「私の画法が上達したのは、あのときに春好に辱めを受けたお陰だ」
私生活はめちゃくちゃだった
とにかく絵を描くことだけを考えた北斎は、私生活は結構めちゃくちゃ。部屋は散らかり放題で、汚くなるとようやく掃除……するかと思いきや、なんと引っ越してしまいます。
生涯で北斎が引っ越しをした数は、実に93回! 掃除を面倒くさがる性格は、見習ってはいけないところですが、それだけ夢中になれることを北斎は見つけたということでしょう。
自分の名前についても、北斎はテキトーそのもので、「春朗」「宗理」「可候」「辰政」「画狂人」「戴斗」「卍」など、何度も名前を変えています。
事情があって変えたときもありましたが、実績を積んでは、その名前を弟子に譲って収入を得ていたという噂もあります。北斎の生活の苦しさを思えば、あながち外れてもいなさそうです。
1848年、北斎は93回目の引越しで、浅草の聖天町へと住居を移しました。80歳頃からはもっぱら肉筆画を描いた北斎。転居の翌年には、数点の作品を完成させていました。