葛飾北斎を世界の浮世絵師にした「ヤバい先輩」 天才画家ゴッホも絶賛、北斎の創作活動の原点

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作曲家のドビュッシーも、この浮世絵から着想を得て、交響詩『海』を作曲しました。世界が誇る偉人の仕事に、北斎は大きなインスピレーションを与えたのです。

まさに日本が誇る偉人中の偉人である、葛飾北斎。一体、どんな子供時代を過ごしたのかが気になりますが、実は記録が少なくてよくわかっていません。

ただ、作画へ興味を持ち始めたのは6歳の頃だったと言われています。13歳にもなると、手伝っていた貸本屋で本の挿絵をのぞいては、絵の勉強をしていたとか。大体、今でいうところの中学生くらいから、絵をちゃんと勉強し始めたということですね。

意外にも、北斎が一番初めに弟子入りしたのは、彫刻家のところでした。北斎は入門後、数年もすれば、文字彫りを担当するようになります。呑み込みがはやかったんでしょうね。そこから浮世絵に方向転換したのは、19歳のときでした。

北斎は、勝川春章に弟子入りし、浮世絵師としての人生をスタートさせました。絵師デビューを果たしたときの名は「勝川春朗」で、15年間で浮世絵版画を約200点以上、挿絵本50冊以上と、かなりの多作でした。

それだけすさまじい量を猛スピードで描いていたにもかかわらず、北斎は貧乏でした。

あまりにも貧しいため、七色(しちみ)唐辛子を売り歩いていた時期もありました。ほかにも暦(カレンダー)売りをやったときには、浅草でまさに売っているときに、前の師匠とばったりと会って、気まずい思いをしたことも……。

しかし、どれだけ貧しくても、北斎は画の道につき進みます。いつも心を支えたのが、「思い出したくもない過去」だったのです。

目の前で看板を破り捨てられる

一体、どんなひどい目に遭ったのでしょう。

あるとき、北斎は絵草紙の問屋のために看板を描きました。問屋は非常に喜んで、店先にその看板を飾っていたそうです。

ところが、そこに師匠である勝川春章の高弟である勝川春好が通りかかり、事件が起きました。春好は「なんとヘタな絵だ」と、本人の目の前で看板をけなして、さらにこんな暴言を吐いたのです。

「こんなものを掲げていては、師匠の恥を掲げているようなものだ」

そして春好は北斎が見ている前で、その看板をビリビリ! なんと引き裂いてしまったのです。

「な、なんてひどいことを……」

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