「妻の姓を名乗る私」から見た夫婦別姓論の"本質" そこには「近代社会の不安」が凝縮されている

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儒教の影響を指摘する識者もいる。中国哲学者の加地伸行は、「中国・韓国(朝鮮)、そして明治31年以前の日本──これらの国々では、結婚後も妻は生家の姓を名乗っていた。その根本理由は、儒教における『同姓不婚』の原則によるものである」と主張している(『儒教とは何か 増補版』中公新書)。

明治31年(1898年)に民法が公布され、現在のような夫婦同姓の仕組みが確立された。要するに、夫婦別姓という儒教文化圏の伝統を廃絶して、夫婦同姓というキリスト教文化圏のファミリーネームを採用したのである。

民法学者の中川善之助は、「婚姻をしても、夫婦夫々の氏に変動は起こらないというのが、キリスト教国を除く世界諸民族の慣習法であった」と述べている(『法学セミナー』152号/「民法改正二十年(回想録捨遺集)」日本評論社)。不平等条約の撤廃などで近代的な法制度の整備が急がれていたことが背景にあるが、戦後の民法改正でも夫婦同姓は存続された。

近代社会の「流動化に対する不安」と夫婦別姓

おそらく「家族の絆が壊れる」といった懸念を抱いている人々の心の奥底には、「流動化に対する不安」がある。これは近代社会の宿命といえるものだ。長年にわたる社会経済状況の変化によって引き起こされたものであって、コミュニティーが衰退局面を迎えていることや、家族が不安定化していることと、夫婦同姓や夫婦別姓は何の関係もない。だが、一部には「夫婦別姓は家族を解体する」と目の敵にする人々もいる。これは「家族の絆」は「氏」(制度)で成り立っていると言っているようなものだ。

寄る辺ない時代は、アイデンティティーの危機が常態化し、犯人捜しに傾倒しやすくなる。社会学者のジョック・ヤングは、近年増大している「他者を悪魔に仕立てあげようとする欲望は、自分たちが社会の中心にいるはずだと思っている人々が抱く、存在論的な不安に由来している。そしてその不安は、かつては自明とされた文化や伝統が──すなわち本質が──崩壊しつつあることが根本的な原因となっている」と述べている(『排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異』青木秀男ほか訳、洛北出版)。つまり原因と結果の取り違えが頻繁に生じるのである。

仮に選択的夫婦別姓制度が実現したとしよう。それでも夫の姓に変える割合が大きく減ることはないだろう。当たり前だが、選択肢が増えたからといって、急に人々の価値観が変わるわけではないからだ。夫の姓になることで結婚を実感する人も多い。夫婦別姓が可能になった場合にそれを選ぶ人は男女とも2割としている民間の調査データもある。

重要なのは、わたしたちが自明視しているものの正体を見抜いたうえで、現代を生きる人々にとって何がふさわしいかを判断することにある。

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真鍋 厚 評論家、著述家

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まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

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