仇敵・島津久光を屈服させた西郷隆盛「人望」の力 言葉を介さず存在そのもので納得させる凄み
幕末においての西郷は、斉彬の跡を継いだ島津久光の迫害に遭いながらも(その迫害がまた、下級武士の間での西郷の求心力を高めるという皮肉な結果につながります)薩摩にとってなくてはならない存在になります。
ときには幕府勢力である会津藩と組んで、反幕府勢力である長州を追い落としながら、時勢が変化するとその長州と同盟を結んで幕府や会津藩を倒すというある種の矛盾は、西郷にとっては「薩摩ファースト」という考えの中では至極当たり前のことであり、彼の配下の薩摩藩士たちは一丸となって西郷のリーダーシップに従っていくわけです。
西郷の「人望」の絶頂、そして最期
明治維新後は、西郷の価値観は「薩摩ファースト」から「下級武士の地位向上」に変化していきます。明治維新は、それまでの武士社会の秩序の打破を目指したものであり、薩摩藩の下級武士たちは続々と新政府の要職につき、栄華を極めていきます。西郷の目指した価値観や世界観は達成され、西郷の「人望」もまた絶頂に達したのでした。
しかし、ここで大きな変化が生まれます。西郷が為した社会は、今度は「武士」という価値観から離れようとしていくのです。この明治政府の新たな指針に対して、武士たちは当然不満を募らせます。
西郷は、下級武士たちの不満を解消すべく、征韓論を打ち出しますが、これも反対に遭い、最後は彼の人望の源である薩摩の下級武士たちに担ぎ上げられるような恰好で西南戦争を起こし、たおれたのでした。
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