仇敵・島津久光を屈服させた西郷隆盛「人望」の力 言葉を介さず存在そのもので納得させる凄み

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龍馬がたおれ、言葉のあとに必要だったのは具体的な仕組みです。これをつくったのは、西郷の盟友である大久保や木戸でした。その仕組みを実践させることができたのは西郷というカリスマの存在です。もし、西郷がいなければ、大久保や木戸は、考えの違う勢力を一つひとつ説得せねばならず日本の近代化は大幅に遅れたでしょう。西郷隆盛は、上は大名から下は下級武士まで、誰もが彼の後ろをついていこうという思いを抱いた人物だったからです。

西郷の価値観はいかにしてつくられたのか?

では、西郷に対する武士たちの「人望」は、いかにして醸成されたのでしょうか。

西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士に生まれながらも主君、島津斉彬に抜擢され出世していきました。西郷の価値観や世界観は、斉彬をベースに形成されていきます。斉彬は薩摩という組織をベースにしながら国家の運営を助けていくというスタンスでした。西郷の「薩摩ファースト」はこのときに生まれました。

斉彬は、国(幕府)を動かすには薩摩という藩の力を最大限に高め、その実力をもって意見をしないと何も変わらないと考えました。当時の幕府は親藩出身の老中たちによって運営されており、外様大名である斉彬がこの国家運営に加わるためには幕府を恐れさせる力が必要だったのです。

このため斉彬は、藩の改革を行います。外国の最新の軍事を学び、その装備を手に入れ、薩摩藩の軍を日本最強の軍隊に変貌させようとします。また、人事においては役職や身分にかかわらず大胆な抜擢を行います。さらに密かに海外との貿易を盛んにし、経済の立て直しを図ります。いわゆるヒト・モノ・カネの強化を行ったのです。

西郷は斉彬のヒト強化のシンボルでした。西郷はこの斉彬の「薩摩藩は力があるからこそ国を動かせる」という薩摩ファーストの信奉者でした。西郷の価値観を形成したのは斉彬の影響と、もうひとつは下級武士の出身という彼の生い立ちでした。

薩摩では下級武士に対する差別が酷く、下級武士の間にはそのことに対する不満が常に存在しました。斉彬の人材登用による西郷の出世は、下級武士たちの希望であり、彼らが夢見る世界観が西郷に植え付けられていきます。

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