「米中対立の狭間」で生きる日本に必要な「想像力」 「最悪のディストピアに至るシナリオ」を描く
自由も平等もかなり暴力的な理念です。自由をどこまでも突きつめれば「万人の万人に対する闘争」の自然状態(無政府状態)に至る。平等を徹底しようとすれば、全体主義監視国家が出現する。どちらか一方だけを選ぶということはできません。
友愛はその対立を調停する第三の統治原理です。友愛は同じ共同体の仲間に対する気づかい、親切のことです。
鄧小平の「先富論」は改革開放政策を主導した思想ですけれども、そこには「先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助けること。富裕層が貧困層を援助することを一つの義務にすることである」と明記されていました。「富者が落伍者を助ける」ことを市民の経済活動の自由を保証することの「交換条件」に挙げていたのです。
残念ながら、市民間の「相互支援」は「義務」として権力者が命令できることではありません。それは「惻隠の心」という人間性の奥底から自然発生的に生まれ出るものです。個人に内在する、「人として当然」という行動規範のことです。いくら最高権力者が言っても、法律で強制することも、経済的利益で誘導することもできない。でも、この友愛が調停しない限り、自由と平等の矛盾は解決不能だと思います。
「自由と平等」の暴走を「中間共同体」が抑制する
それに、自由と平等と友愛はそれぞれ実践する主体の次元が違います。自由の主体は個人です。平等の主体は公権力です。友愛の主体は、こう言ってよければ、その中間にある共同体です。自由主義の暴走と平等主義の暴走を、中間共同体の常識が抑制する。「理屈としてはそうかも知れないけれど、どうしても納得できない」「それを言っちゃあおしまいだぜ」という理屈にならない人としての情が緩衝材になって自由と平等の矛盾を和らげることができる。
「人としての情」というような頼りないものを統治原理に繰り上げてよいのかと不安に思う人もいると思います。たしかにポストモダニズムの時代には「人としての情」などというものは、100%集団的な幻想であって、他の集団には適用できないし、すべきでもないという考え方が支配的でした。でも、ポスト・ポストモダニズムの時代には、前の時代に最も激しく批判され、排斥されたものが、キーコンセプトとして甦って来る。僕はそんな気がします。
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