いまの日本の消費者は、食べ物がなくて飢えたり、着る服がなくて凍えたりすることは滅多にないだろう。もしあってもそれは福祉的支援でなんとかならないことはない。
でも、仮にどれだけふんだんに衣食住に恵まれていたとしても、その人の日々の暮らしに笑いがなければどれだけ味気ないだろうか。
しかもこの笑いという現象は、他の情動と比べればなんと絶妙な技巧が要求されることか。むかしの外国映画でも勧善懲悪的ヒーローに快哉を叫んだり、泣かせるシーンで目頭を熱くしたりすることはできるが、それは怒りや哀しみの構造が古今東西でさほど変わっていないからだろう。
笑いはそうではない。少し文化的背景や時代が変わると、面白く感じる対象も変わる。そして笑わせる側が精進してイノベーションを起こすと、笑わされる側のリテラシーも発達し、同時代の社会の笑いの琴線が洗練し、進歩してしまう。
ある時点で笑いの天才が一世を風靡しても、聴衆たちがその笑いをパターン学習するとむしろそれがマンネリに感じられて、また進化することを期待する。天才自身がそれに追いつけない悲劇も時に起きるだろう。
なんともすさまじい世界である。こんなにヒット商品の陳腐化が早い市場、なにか他にありますか?
そんなプロたちの生態を読んでいると、大学の授業のつかみ程度で芸談を気取り、「やはり緊張と緩和が大事」とか言っていた自分が気恥ずかしくなってくる……。勉強し直します。
『まんが道』に比肩する歴史的証言
この著者の娯楽コンテンツ産業論をまとめて読んでみたいが、芸人たちのエピソードをもっともっと読んでみたい気持ちも実は強い。なので著者には、そのどちらをもこれからどんどん書いてほしい。
本書は、マンガ史における藤子不二雄Aの『まんが道』のように、将来のお笑い史研究者にとっての基礎的テキストのひとつになるだろう。その意味で、ただのビジネス書ではない、歴史的証言である。
「M-1はじめました。」が10倍面白くなる
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