「肥満の大将」と呼ばれた戦国武将の"驚きの最期" 肥前の龍造寺隆信の最期、一体何があったのか

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このままではまずいと、主治医がビスマルクの食事や飲酒の量を管理。起床や就寝、休養の時間も管理した結果、ビスマルクは68歳にして20キロの減量に成功している。

体調不良から早期の引退を望んでいたビルマスクだったが、ダイエットで心持ちも変わったようだ。

75歳で宰相を罷免されたあとも、議員の補欠選挙への出馬に踏み切るなど政界復帰への意欲は衰えず、影響力を持ち続けた。肺の充血によって83歳で死去。かつての不健康ぶりを思えば、十分に長寿だといえる。

江戸幕府を開いた徳川家康も、肥満体型だったらしい。スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロは『ドン・ロドリゴ日本見聞録』でこう書いた。

「尊敬すべき愉快な容貌をしており、太子(秀忠)のように色は黒くなく、また彼より肥満していた」

それでも家康が健康を損なわなかったのは、適度な運動を心がけて、かつ、食養生を実践していたからだろう。2代目将軍を務める息子の秀忠に、できるだけ盤石な状態で実権を移すため、家康はできるだけ健康で長生きしようとしたともいわれる。漢方も自ら調合するという、こだわりぶりを見せた。

家康の死因については、タイの天ぷらを食べて食中毒になったからとされてきたが、近年は胃癌が有力視されている。75歳で没した。

肥満の戦国武将、龍造寺隆信

肥満のせいで、一風変わった最期を遂げた戦国大名がいる。現在の佐賀県や長崎県にあたる肥前国を中心に活躍した、龍造寺隆信のことだ。

肥前国を中心に活躍した、龍造寺隆信(イラスト:『おしまい図鑑 すごい人は最期にどう生きたか?』より引用)

1529年に生まれた隆信は家康より14歳年上で、織田信長と比べても5歳年上にあたる。だが、本能寺の変で信長が49歳で亡くなると、その2年後に隆信も56歳でこの世を去っている。一体、何があったのか。

20歳で龍造寺本家の当主となった隆信は、家臣たちの陰謀で引きずりおろされそうになりながらも、主君の少弐(しょうに)氏を下剋上で倒す。隆信はかつて、祖父の龍造寺家純と父の周家が謀反の嫌疑をかけられて、少弐氏に殺されている。念願の敵討ちだった。

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