また、アスカにはMTをベースとするAT「NAVi-5」の搭載モデルがあった。流体トルクコンバーターで駆動力を伝達する通常のATと異なり、NAVi-5はクラッチ板で伝える。ざっくりいえば、クラッチペダルを踏む/離すことと、シフトレバーを動かすことを人間に代わって床下のロボットが電気的にやっていた。
現在では一般に機械式ATもしくは自動MTなどと呼ばれる類で、NAVi-5はその分野の量産型としては世界初であった。しかしこのシステムの完成度は低くトラブルが頻発、乗用車用としてはしばらく後続が絶えた。
いすゞはNAVi-5をトラックやバスなどで継続的に発展させたが、乗用車用として他メーカーに波及するのは20世紀も終わる頃、アルファ ロメオの「セレスピード」やフェラーリの「F1マチック」などを待たねばならない。
同様に和名車名もメジャーにはならなかった。近頃でこそトヨタ・ミライやニッサン・サクラが挙げられるが、いずれにしろいすゞの施策は時代に先行しすぎていたのかもしれない。
1990年代、RVで存在を主張した
前置きが長くなったが、当欄は『1990年代のクルマはこんなにも熱かった』である。乗用車メーカーとしては小粒ながらユニーク、特に先進的なデザインのクルマを世に送り出してきたいすゞだったが、1993年に商用ワンボックスとSUV(スポーツ多目的車)を除く乗用車の新規開発と自社生産をやめてしまった。
その後は2002年まで他社からOEM供給された車両にいすゞのバッジを貼り付け、トラックを買いに来た顧客の普段のアシとして細々と売っていた。ホンダ「ドマーニ」をいすゞ「ジェミニ」とし、スバル・レガシィをいすゞ「アスカ」とした。
1990年代、一般の自動車ユーザーから遠ざかっていく中で、いすゞがその存在を主張したのが「ビッグホーン」や「ミュー/ウィザード」などのSUV(当時はRVといった)だ。中でも1981年の初代ビッグホーンは1980年代に巻き起こったRVブームの草分け的存在で、副変速機を備える本格派4WDとしてマニアの間では一定の存在感を保っていた。
「イルムシャー」や「ハンドリング・バイ・ロータス」といったスポーツカーブランドとの協業による特別仕様車は、現代に続くSUVの源流と見ることもできる。しかし、三菱パジェロ(1982年)やトヨタ・ハイラックスサーフ(1983年)に押され、徐々に立ち位置を失っていった。