山手線の「地味な駅」田端、昔はターミナルだった 芸術家と貨物輸送の街、なぜ影が薄くなった?

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それまでの鋼橋はリベット留めと呼ばれる技術で接合されてきたが、田端大橋は最新技術の全溶接接合が用いられた。時代の最先端技術で架橋されたことを踏まえると、田端駅に寄せられていた期待の大きさがうかがえる。

田端大橋は1987年に新田端大橋が架橋されたことで自動車橋としての役目を譲り、田端ふれあい橋へと改称したが、取り壊されることなく、現在も歩行者専用橋として多くの住民・来街者に利用されている。

田端駅北口
田端駅北口。切り通しが開削されたことにより、田端大橋が架橋された。手前に写っている道路が新田端大橋(筆者撮影)

田端駅は戦火で焼失し、街も焼け野原となった。1945年、東京は都心部から優先的に復興事業が進められた。東京は焼け野原になっていたので後回しにされた地域も多いが、田端駅は応急処置的ながらも例外的に復旧が推進された。それは同駅が有する貨物機能の早期回復が望まれたことが理由だが、旅客列車においても山手線と京浜東北線の分離といった大改造が実施される。

現在、山手線と京浜東北線は別々の線路を走っているが、かつては同一の線路を走っていた。同じ線路を両者が交互に走ることで施設を効率的に使える一方、運転本数を増やせないというジレンマを抱えていた。輸送力は限界に達していたこともあり、国鉄は両線の分離運転を計画。1949年から工事が始まり、1956年に完了した。これによって、田端駅―田町駅間は山手線と京浜東北線が別々の線路を走るようになった。

影は薄くても重要駅

駅そのものは主に貨物輸送で存在感を発揮したものの、田端の街は戦災復興でも区画整理が進まず、細分化された土地が多く残っていた。そうしたことから、東京のあちこちが開発に沸く高度経済成長期やバブル期といった時代においても大規模な再開発が実施されることはなかった。

一方、1993年11月には、駅前に田端文士村記念館がオープン。現在、地元・北区は芥川龍之介旧居跡地の一部を買い取り、同地で記念館の整備を進めている。

田端文士村記念館
田端駅北口に1993年に開館した田端文士村記念館(筆者撮影)

こうした文化的な開発が進められる一方で、駅には長らく商業開発の機運が芽生えることはなかったが、国鉄の民営化によりJRが発足し、JR東日本が駅ビルやエキナカといった駅を中心とする開発を加速した頃から、少しだけ風向きが変わり始めた。これは2008年に駅ビルとして結実するが、それでも山手線の駅としては小規模な開発にとどまっている。

JR東日本首都圏本部
田端駅北口には2022年に東京支社から改称したJR東日本の首都圏本部がある(筆者撮影)

そんな街の様子から、田端は山手線の中でも影の薄い駅として扱われがちだが、JR東日本が首都圏本部を置いていることからもうかがえるように、重要性は開業時から変わっていない。

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小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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