山手線の「地味な駅」田端、昔はターミナルだった 芸術家と貨物輸送の街、なぜ影が薄くなった?

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田端駅は震災後もフル活用された。政府は家屋や仕事を失った被災者に対して、地方への疎開を推奨。疎開は無賃乗車が認められ、多くの被災者が地方へと移った。その際、上野駅は震災で焼失していたので、田端駅が地方への出発駅としての役割を担う。さらに、地方都市から届けられる救援物資の受け取り場所としても同駅と操車場は大いに機能している。

関東大震災は東京市(現・東京都)に大きな損害を与えたが、他方で周辺部の都市化を促した。荒川遊園(現・あらかわ遊園)や尾久三業地がある尾久町(現・荒川区東尾久・西尾久地区)は東京郊外の行楽地だったが、震災後は宅地化が一気に進展。尾久町に隣接する田端もそれに伴い宅地化が進み、人口は急増した。宅地化は街の様相を変え、駅からの動線も変化した。

現在の田端駅には北口と南口があり、多くの乗降客は北口を利用している。北口には小さいながらも駅前広場やロータリーがあり、駅ビルもある。一方、南口は自動車が乗り入れできず、徒歩のみでしかアクセスできない。その雰囲気は時間が昭和で止まったかのようなたたずまいで、とても日本を代表する路線・山手線の駅とは思えない。しかし、関東大震災が起きるまでは、南口側が街の玄関口として機能していた。それが、震災以降は尾久町に近い駅北側エリアの人口が増えていく。

田端駅北口
田端駅北口駅舎は2008年に建て替えられて駅ビルがオープンした(筆者撮影)

街の玄関は南口から北口へ

1929年、田端駅は再び変化を突きつけられる。東北本線の運行本数が増えたため、その対策として列車線(東北本線)と電車線(京浜東北線)の線路を分離。この際に列車線の駅として尾久駅が新設され、それまで田端駅に発着していた東北本線と高崎線の列車は尾久駅経由に変更された。こうして、田端駅は電車線だけの駅になった。それと同時に、駅舎は以前の場所へと戻されている。

1935年には、駅に面した道路の切り通しが開削された。同時に、それまで歩行者専用跨線橋として利用されていた江戸坂跨線橋を廃止する代わりとして田端大橋が架橋された。これにより、田端駅の玄関機能を北口が担うようになる。

田端大橋は、鉄道省出身の技術者だった田中豊が設計を担当した。もともと田中は橋梁のエンジニアではなかったが、関東大震災の復興事業で人手が足りないとの理由から橋梁の設計を担当させられる。そこで田中は才能を開花させ、相生橋・永代橋・蔵前橋・駒形橋・言問橋・清洲橋といった隅田川橋梁群を手がけた。これらの橋梁は、現在も美しいデザインとして語り継がれている。

その実績から、田中は東京帝国大学の教壇にも立つようになった。そして、1933年に鉄道省を退官して東京帝国大学の教授に転身。田端大橋の設計依頼は、退官から2年後に打診されている。

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