山手線の「地味な駅」田端、昔はターミナルだった 芸術家と貨物輸送の街、なぜ影が薄くなった?

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板谷は東京美術学校の彫刻科を卒業し、石川県工業学校(現・石川県立工業高校)に彫刻科の教師として赴任。しかし、翌年に石川県工業学校の彫刻科は廃止される。同校を創立し、初代校長を務めた納富介次郎は1873年のウィーン万博や1876年のフィラデルフィア万博に政府随員として参加。万博を経験した納富は、帰国後に窯業を振興することが日本発展につながると考え、陶芸家の育成に努めた。

板谷が赴任したとき、納富は他校へ転出していた。それでも同校は納富の薫陶を受け継いでおり、陶磁科は看板学科になっていた。そうした経緯もあり、板谷は彫刻科が廃止された後は陶磁科の教員として同校で指導を続けた。こうして板谷は彫刻から陶芸家へ転身し、1903年には同校を辞して田端へ移住。すでに陶芸家として活動を始めており、その才能は田端で花開いていく。

板谷が田端に居を定めた頃から、芸術家・文士が続々と田端へと集まってくるようになった。1911年には直木三十五、1913年には岡倉天心、1914年には芥川龍之介、1916年には室生犀星、1923年には菊池寛など数えきれない。変わったところでは、ステンドグラス作家の小川三知が1912年から没するまで居住している。

先述した東京美術学校出身者では、滝野川町(現・北区)の町会議員も務め鋳金の第一人者でもある香取秀治郎(秀真)、さらに息子で鋳金作家として人間国宝になった香取正彦、彫刻家の吉田三郎、洋画家の吉村芳松などが居住した。

田端に集った芸術家・文士は、ここを終の住処にしたわけではない。わずかな期間だけ居住したり別宅として使用されたりしたケースも少なくないが、多くの芸術家・文士が集まって切磋琢磨し、それが優れた作品の誕生につながったことは間違いない。

明治期は大ターミナルだったが…

田端駅が開設された約半年後、日本鉄道は土浦線・隅田川線(現・常磐線)を開業した。土浦線は1901年に海岸線と改称し、国有化後の1909年に常磐線となる。当初の海岸線は田端駅を経由していた。さらに、常磐炭田の石炭や日立鉱山の銅などをスピーディーに横浜港へと運搬することが求められたこともあり、1903年に田端駅と品川線を結ぶ支線の豊島線(現・山手線の田端駅―池袋駅間)が建設された。

田端駅一帯の「鉄道八景」
田端駅の一帯には、鉄道八景と名付けられた鉄道関連の展示物が点在する(筆者撮影)

豊島線の完成によって、田端駅は3路線が乗り入れる当時日本屈指のターミナル駅になった。これほどの巨大ターミナルなら、田端が大発展すると誰もが思うことだろう。しかし、その後は予想に反して都市開発の潮流から取り残され、発展とは無縁な歴史を歩んでいく。それどころか、歳月の経過とともに段階的にターミナル機能を喪失していった。

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