その存在を「毒親とは単純に悪人だ」というふうに矮小化して、その問題を「悪い親と、無実なこども」という構図だけで簡素化させてしまい、「なぜそうなってしまったのか」という本質的なところにまで触れさせないような危うさがあったと思います。だから毒親育ちは、そして毒親に批判的な人たちはみな「親もかつては子どもで、親の親に育てられていた」ということをスッポリと忘れてしまっていたのです。
いや、見えないようにしていたのです。毒親の毒は、どこからかわいてきたものじゃなく連綿に続く呪縛だったことを。
「毒親」という言葉が覆い隠しているもの
確かにこの事実から目を背けるのは、仕方がないことだとも思います。なぜなら、まるで親も被害者だという論旨は、ますます毒親育ちの子どもの良心を追い詰め、今までの親の仕打ちを許すよう迫るような、そんな考えや空気感にもつながるから。だからその毒が《毒親自身の子ども時代から続いていること》という連続性を無視して、毒親という別の生き物が存在することにする楽さを、世間は選んでしまったのです。
もちろん子どもは、理解のできない親に寄り添う必要はないと思う。でも本来はドン引きして攻撃する必要もないのかもしれない。寄り添うのでも、ドン引きして雑なカテゴリに押し込むのでもなく、もっといい落としどころと、引くべき距離感があるのだと思う――それがこの本では提案してあると思うのです。
毒親という言葉は、結局それは親を神格化して崇めるのと同じくらい、何も見えておらず反射的で軽率で、そして無批判で無条件な盲信に近いのです。本当は親の存在は、そこまでビビるほど大きくもなく、そしてそこまで押し込めて小さくできるものでもない。ただ1人の人間の存在。だからこそ《親としては未熟だった人間》として、そのあり方に想いを馳せることは、彼らに感じていた強烈な期待や憎しみをも等身大のサイズに戻してくれるだろうと思います。
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