東武・獨協大学前、マンモス団地を支えた駅の変身 かつての「松原団地駅」は学園都市の玄関に
しかし、駅周辺は低地の水田だったこともあり、団地建設で水捌けが悪化。台風によって、冠水が毎年のように起きるようになる。1974年には台風8号によって団地全域が浸水。これを機に水害対策協議会が設置され、綾瀬川や伝右川の治水対策が取り組まれるようになった。そして1985年には松原排水機場が完成。それでも、浸水被害はなくならず、団地の住民を悩ませた。
冠水時、団地から東京へと通勤するサラリーマンは家から長靴を履いて駅まで歩き、持参したビニール袋に長靴を入れて駅で通勤靴へと履き替えることが常識になっていた。そして、駅コンコースの手すりには長靴を入れたビニール袋をぶら下げておくのも松原団地駅の独特の習わしだった。長靴が手すりにぶら下げられて並ぶ光景は、平成期に入っても見られた。
東武は浸水対策も兼ねて伊勢崎線の高架化に着手し、松原団地駅を含む草加市全域は1988年に全線が高架化した。
「団地」の名が消えても残る功績
伊勢崎線の通勤需要を生み出してきた草加松原団地は、1990年代から建て替え議論が喧しくなる。そして、1996年には松原団地駅西口再整備事業が開始された。
1999年、松原団地の再生トップバッターとして高さ105mを誇る超高層住宅のハーモネスタワーが完成。そして、2003年から草加市・獨協大学・UR都市機構の3者によって松原地区の再整備事業が開始される。同事業では、駅から近いA地区から順に建て替えられることになり、A地区の団地はコンフォール松原へと生まれ変わる。
地域のシンボルだった草加松原団地が姿を変えたこともあり、草加商工会議所を中心にした松原団地駅名変更協議会が発足。同協議会が主導し、獨協大学が約3億円の費用を負担する形で2017年に駅名が獨協大学前駅、副駅名称が草加松原へと変更された。
ベッドタウンとして東京を支えた草加松原団地は、駅名の改称により名実ともに歴史の1ページとなった。松原団地駅時代から数えても、獨協大学前駅は60年の歴史しかなく、1899年に開業した伊勢崎線の歴史から見れば短い。それでも高度経済成長を「住」の部分で支えてきた同駅と団地の存在は、今後も語り継がれていくことになるだろう。
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