東武・獨協大学前、マンモス団地を支えた駅の変身 かつての「松原団地駅」は学園都市の玄関に
2023年、埼玉県草加市は市制施行65年を迎える。前身の草加町は1955年に草加町・谷塚町・新田村が合併して誕生し、1958年に市制を施行。当時は時限的に市制施行の人口要件が3万人に緩和されていたこともあり、このタイミングで草加町は市になった。
その後も人口は順調に増加した。その背景には、高度経済成長期に地方の農村部から都市部への人口流入が加速していたことが挙げられる。東京に接しているという地理的要因もあり、ベッドタウンとして順調に発展を遂げた草加市の発展史を概観したとき、市内を南北に貫く東武鉄道の伊勢崎線が果たした役割は見逃せない。
北関東の貨物輸送を支えた東武
東武鉄道は1899年に最初の区間となる北千住駅―久喜駅間を開業しているが、同時に千住―越中島間も申請しており、そちらは却下されている。すでに、北関東には日本鉄道(現・JR東日本の東北本線・高崎線・常磐線など)が路線を広げており、同鉄道は北関東で生産された生糸を東京・横浜へと運搬するという役目を課せられていた。
しかし、日本鉄道の沿線からはずれた機業地も少なくなく、そうした地域から鉄道を望む声があがる。それが伊勢崎線の実現につながるわけだが、開業前から日光街道・奥州街道の旧宿場町にあたる千住・草加・越谷・粕壁(春日部)は多くの人出でにぎわっていた。地元の篤志家たちは、鉄道が開業すれば沿線の殖産興業につながると主張。資金を出し合って、1893年に千住茶釜橋―越ヶ谷町間に千住馬車鉄道を開業させる。
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