『逃げ上手の若君』作者が語る才能弱者の戦略 漫画家松井優征が「逃げ」をテーマにした理由
――そうした経験は、『暗殺教室』のストーリーなど、松井さんが描く漫画に影響を与えているのでしょうか?
もちろん影響しています。「こいつだったら何をしてもいい」と思ったらどこまででも残酷になれる人、「こいつさえ我慢してくれていたらすべては丸く収まる」という犠牲を強いる人など、こちら側から見ているからこそ見える人の顔がたくさんあり、漏らさず観察するようにしていました。
自分への観察もしていて「自分だって一歩まちがえばいじめる側に行くかもしれない」という恐怖感など、人の心理を学ぶうえでとても大事な場だったと思います。余談ですがおすすめしたい教科は歴史で、人はどういうときに誰を攻撃する、という心理がよく学べ、人付き合いでの心理分析の補強になります。
――そもそも、なぜ漫画家になろうと思われたのでしょうか。非常に厳しい世界に飛び込むということには相当な勇気が必要だったのではないでしょうか?
家が音楽一家でそういう職業に抵抗がなかったこともありますが、一番はサラリーマンになる才能がなかったことです。自分から見ればサラリーマンのほうがずっと超能力者だと思います。
空気を読み、人に合わせ、日常的な忍耐に耐え、安定してミスをしないことは自分にはとてもできないでしょう。もちろん漫画家を職業にするというのはギャンブルにもほどがあるので、全員におすすめはできませんが、ネットが発達した現在では、趣味で発表するだけでも人生を楽しく彩ってくれると思います。
――現在連載中の『逃げ上手の若君』は、実力はないが逃げることだけはうまい主人公の物語です。「逃げること」をテーマにしたのはなぜなのでしょうか?
「面白さ」とは「ギャップ」だとよく言われます。みなが戦うのが当たり前の歴史漫画のなかで1つだけ逃げる武将の漫画があれば、それはギャップになり、面白さにつながります。どんなジャンルでも、みなと同じことをしていてはギャップという面白さが生まれません。
みながホームランを狙うなら自分はバントを、みなが羊羹をつくるなら自分は漬物を、など、どこかに「逆張り」できるチャンスがないかといつも探しています。僕は人に合わせることができないゆえに生きづらいですが、裏を返せば人とちがうことしかできないということであり、それは「ギャップ」を生み出す原動力となっています。
才能弱者が才能強者に勝つ戦略
――著書『ひらめき教室「弱者」のための仕事論』のなかで『暗殺教室』にふれて「暗殺は弱いなりに力を発揮できる方法」と語られています。「弱いなりに生きる」ことについてはどうお考えですか?
「自分には才能がない」というのが僕の生きるうえの基本戦略です。悲しいことに努力の才能すらありません(反復練習するのも苦手なので絵がなかなか上手くならない)。
でも、才能弱者が才能強者に勝つ戦略を考えることはとても楽しいです。モーターボートで戦艦を沈めるにはどうしたらいいか。下手な絵でも皆の目を惹きつけるにはどういう見せ方にしたらいいか。
みなさんが生きていくうちにわかると思いますが、才能強者ほど隙があり、歩みが鈍る人が多いです。小中高で才能と自信にあふれていた人が、同窓会で会ってみると見る影もない、などもざらにあります。
強者たちの隙を突き、強者たちが選ばなかったルートを開発して追い抜き、先を行く。それが読み通りに成功したときはこのうえない快感です。どのジャンルも、分析してみればびっくりするほど多岐にわたる弱者戦略があり、それはおおよそ誰にでも実行可能な戦略です。ぜひ試してみてください。