急いで入り口を抜け、男湯の暖簾をくぐる。脱衣場のロッカーの前に、杖をつき、腰が90度近く曲がった板垣がいた。「ソース顔を煮詰めて若干焦がした」と評される顔面を紅潮させ、二人組の若い男性に詰め寄っている。しかも上着は真っ赤なアロハシャツ。板垣レッドに宮瀬ピンク、我が応援団はいつからヒーロー戦隊になったのだ。小言がこぼれそうになるのをこらえ、「板垣、落ち着け」と声をかけた。
「おお、ちょうどいいところに来た。おまえらも怒れよ」
「よし、任せとけ。プンスカプン! ってなるわけないだろ」
「くわー、引間広志副団長は相変わらず冷静だこと。いや、冷静を通り越して、冷え性だぜ」
「それは私の体質だろ。それとも、冷え性が辛くて『内面まで冷えがち』ってことか」
「どうしてこのおじいさんに絡まれちゃったのかな?」
宮瀬が柔らかな声で訊いた。
20代半ばくらいの若者だった。一人は背が低く、モヒカン頭で、トゲトゲが無数についた黒革のライダースジャケットを着ている。もう一人は縦にも横にも大きく、ライオンのタテガミのような、うねったパーマ頭だ。雰囲気からして、巣立の友人には見えなかった。
「えっと、70歳で死ぬのはかわいそうって言ったら、急に……」
モヒカンの彼が、横目で板垣を窺う。
「かわいそうだと?」板垣の太い眉毛がつり上がる。「おまえらはあれか、まわりより長く生きれば幸せで、そうじゃなければかわいそうと言うんだな」
タテガミの彼が、眉をハの字に曲げた。しかし高校時代に「歩く活火山」と異名を取っていた板垣は、真っ赤な顔で語気を強めていく。
「平均寿命、平均年収、平均台、なんでも平均に躍らされやがって。他人との比較でしか幸せを感じられないおまえらの方が、よっぽどかわいそうだっつうの」
「かわいそうなのは、とばっちりをくらった平均台だ」
口を挟んでみるものの、板垣は止まらない。地団駄を踏むように杖で床を叩き、「人生は、どのくらい長く生きたか、じゃねえぞ。どのくらい必死に生きたか、だ。短くても精一杯やった奴の人生を、『かわいそう』なんて一言で片づけられてたまるかよ」と喚いている。
「かわいそうって言われたくらいで、ここまで怒ることはないのにね」
宮瀬が困ったように笑う。
「こんな時に巣立がいればな」
私はちょび髭のムードメーカーを思った。
「あのー、お取り込み中のところ失礼します」
「喧嘩じゃなくて、お別れをしに来たんだから」
顔を向けると、喪服を着た若い女性がほほえんでいた。くりっとした大きな瞳に、小動物を思わせる小さな顔。鼻先が丸く、可愛らしいが整いすぎていない顔立ちに、なぜか親近感が湧く。
「受付がまだのようでしたら、あちらでどうぞ」と彼女が番台を指す。素晴らしい助け舟だ。私は二人組に目配せする。彼らはほっとした表情で、足早に去っていった。
「今日は喧嘩じゃなくて、お別れをしに来たんだからね。一言では片づけられない気持ちを、巣立に伝えなきゃ」
宮瀬に促され、板垣はしぶしぶ番台へと歩き出した。
受付を済ませ、まわりを見渡す。男女の脱衣場を仕切る衝立が外され、浴場を背に祭壇が設置されていた。
祭壇の前に並ぶパイプ椅子に腰をかける。遺影を直視できず、祭壇を飾る花の花びらの数を一枚ずつ数えていく。しばらくすると、男湯の暖簾をくぐり僧侶が登場し、お経を唱えはじめた。脱衣場に低い声が伸びる中、三人で焼香の列に並ぶ。
「板垣、喪服は普通、黒だろうよ」
まわりの視線を感じ、赤い背中に抗議する。
「俺は熱血教師だったからな。喪に服す時は赤って決めてんだ」
板垣の勝手な決めつけ癖も、大いに健在らしい。学校は常識を教える場なのに……。さぞ教え子たちは振り回されたに違いない。
列が進み、私の番になる。のろのろと目線を上げ、遺影と対面した。焼香に伸ばした手が止まる。巣立は、高校時代のあどけない面影を残したまま──。いや、丸顔のちょび髭に詰襟とリーゼント。まさに応援団の現役当時の写真だった。しかもその口もとは、ニヤニヤと締まりなくゆるんでいる。
「こんなのいつ撮ったんだ? もっとまともな写真もあったろうに」
笑いを堪えきれず、鼻息で焼香が舞う。
「覚えてないけどさ、きっとこのニヤニヤ顔が一番のお気に入りなんだよ」
宮瀬が目を細め、なにやらメモを取る。板垣も「巣立らしいぜ」と頷いた。
記憶がゆらゆらと立ち上がる。口もとをゆるめる彼の表情に、ある迷言が思い当たった。
あれは高校を卒業する日のことだ。
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