25年で姿消した不遇の路面電車「川崎市電」の軌跡 戦時中に開業「環状線」構想もあったが実現せず

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廃線跡は、現在は緑道として整備されており、この緑道を歩いていくと、やがて市電の当初の終点であった桜本にたどり着く。付近の桜川公園には市電車両が1両(702号車)保存されている(車内は原則非公開)。

川崎市電保存車両 702号
桜川公園の保存車両(702号)。1922年に製造され、1947年に都電から川崎市電に移籍。後に更新工事(鋼体化)を行い、市電廃止時まで活躍した(筆者撮影)

市電が開業した当時は、桜本から先へ行くには京急大師線(当時は戦時統制下で京浜電鉄を含む私鉄各社を統合した「大東急」時代のため、東急大師線)に乗り換える必要があった。大師線がこんなところまで来ていた時代があったといえば驚くかもしれないが、これには、市電計画時における次のようないきさつがある。

川崎市は、川崎駅前から臨海工業地域を経由して川崎大師駅に至る市電建設計画を立案した(当初はさらに大師線を買収し、市電のみで完全な環状線にする計画だった)が、東急も独自の大師線延伸計画を持っていたため、一部区間が競願となった。

そこで運輸通信省で審理した結果、川崎駅側から西回りで桜本までを川崎市、川崎大師駅から東回りで桜本までを東急が建設するよう調整がなされた。

その後、両社で各々工事が進められ、東急は1945年1月に桜本までの大師線延伸を完了させた。川崎市電は1944年10月の東渡田五丁目(現・川崎区鋼管通3丁目付近)までの部分開業後、川崎大空襲などによる被害の復旧に努めながら延伸工事を進め、1945年12月に桜本まで竣工させた。こうして両線は桜本で顔を合わせ、ほぼ環状線ができあがった。「ほぼ」というのは、結局、川崎駅前でも桜本でも両線のレールはつながることはなく、乗り換えが必要だったからだ。

工業地帯の貨物輸送を担った市電

こうして桜本までの計画線の全通を果たした川崎市電であったが、すでに戦後となっており、軍需工場への工員輸送という建設の主目的は失われた。

代わって担うことになったのが、臨海工業地帯の貨物輸送という使命であった。国鉄の貨物列車が浜川崎駅から連絡線(浜川崎駅構内―日本鋼管前停留所付近間 0.5km)で市電に入り、さらに桜本から大師線に乗り入れ、各工場などの専用線と接続するという輸送ルートの一端を担ったのである。その際、市電と大師線は線路幅1435mmの標準軌、国鉄線は線路幅1067mmの狭軌なので、市電と大師線の一部区間を3線軌条にして対応した。

川崎市電と大師線
浜川崎駅(左下)と中央の産業道路に沿って走る市電。右上の桜本で市電と大師線の駅は離れて描かれている(出典:1948年測量国土地理院地形図)

その後、臨海工業地帯のさらなる発展にともない、港湾貨物の陸上輸送力強化の観点から、大師線の塩浜―池上新田―桜本間を川崎市が買収し、市電に組み込んだ。この時点で市電は路線長での最盛期(6.95km)を迎えた。終点の塩浜停留所は、現在の「夜光」交差点付近にあった。

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