25年で姿消した不遇の路面電車「川崎市電」の軌跡 戦時中に開業「環状線」構想もあったが実現せず
だが、やがて転機が訪れる。臨海部では戦前から埋め立て・造成が開始された水江町・千鳥町に続き、昭和30年代には浮島町の埋め立て・造成が進められていたが、1961年に浮島町の造成が完了し、進出企業の操業が開始されれば、3線軌条による変則的な貨物輸送では限界を超えるのが目に見えていた。また、浜川崎駅の貨物取扱量も急増していたが、同駅は周辺を大工場に囲まれ、拡張の余地がなかった。そのため、新たな操車場の建設が急がれた。
こうした背景から、1964年3月に塩浜操駅(現・川崎貨物駅)が開業し、浜川崎駅と塩浜操駅間を結ぶ国鉄貨物支線(この線を敷くために、市電を一部単線化して用地提供した)が開業すると、池上新田付近で、当時は地上を走っていた貨物支線(現在は高架化)と市電の平面クロスの問題が発生した。
しかし、不採算の市電に新たに立体工事を行うなど投資を行う余裕はなく、路線の先端部分(池上新田―塩浜間)を廃止せざるを得なかった。同時に市電の3線軌条による貨物輸送も廃止され、以後の川崎臨海部の貨物輸送は、新たに第三セクターによって設立され、塩浜操駅と水江・千鳥・浮島の3地区を結ぶ貨物線3路線を保有・運行する神奈川臨海鉄道に委ねられた(2023年2月26日付記事「川崎・横浜の港を走る、知られざる『貨物線』の実力」)。
そして1969年3月、モータリゼーションの波に抗えず、川崎市電は全廃となった。結局、川崎市電が存続したのは、わずか25年間という短い期間であった。
不遇の路面電車に学ぶべきことは
こうして見てみると、川崎の路面電車は時代の波に翻弄され、不遇の歴史を歩んだことがわかる。最初の海岸電軌は、経済恐慌と鶴見臨港鉄道という競合鉄道線の登場により、開業からわずか12年で姿を消した。
川崎市電も、開業当時、鉄道を管轄する運輸通信大臣に就任していた東急の総帥・五島慶太の意向には抗えず、環状線の実現はおろか、大師方面への乗り入れすら果たすことができなかった。また、桜本までの路線主要部が完成したときには、すでに「軍需工場への工員輸送」という建設の主目的を失っていた。
その後も、旅客輸送面では、専用軌道化が進み、軌道線から地方鉄道線に変更(1943年)されていた大師線との直通運転の実現は難しく、乗り換えなしでの環状線の実現という夢はついに果たせなかった。また、貨物輸送面は、貧弱な軌道では大量輸送時代に適応することができなかった。
川崎市電は路線網の拡充含め、すべてが中途半端に終わってしまった感がある。しかし、公園の保存車両や「市電通り」という名に、今もなおその記憶がとどめられ、少なからぬ市民に愛され続けている。また、その歴史を見ると時代に即した公共交通の整備の難しさという観点で、学ぶべきことが多いように思われる。
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